塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の十 「熊野詣と四国遍路」

またおいでてくれたんな。ほな、ぼちぼち行くでか。

ここに「み熊野ねっと」ゆうホームページがあるんやけんど、これが詳しいに熊野参詣の作法を書いてくれとります。

あんまり詳しすぎるんで、ちょびっと(少し)簡単に書き直してみるで。これ見たら、四国のお遍路が熊野から来とんのがよう判るでな。

浄土信仰が盛んになった平安時代の末、熊野本宮は西方極楽浄土やとか、新宮は東方浄瑠璃浄土やとか、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地やと言われて、熊野全体が浄土の地とみなされるようになったそうな。

そんで中世、人々は(とゆうても、そこそこ身分の高い人たちやろな)苦しい生活から逃れて、生きながら浄土に生まれ変わることを夢見て、苦しい熊野詣の道を歩いたらしい。

ほな「み熊野ねっと」を読むで。

「熊野は辺境の山岳地帯にあるので道案内が必要とされ、その道案内を修験者がつとめました。この道案内人を先達(せんだつ)と呼びましたが、先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行いました。」とあるけんど、これは今のお四国遍路でもおんなじやな。

先達さんに連れられて、ようけ団体でお参りしとります。

「精進潔斎の生活は道中でも当然、続けなければなりません。また、先達の指導のもとに、祓(はらえ)や、海辺や川辺での垢離(こり。冷水を浴びて身心を清めること)、王子社での奉幣などの儀礼も行われました。」

これは神道やわな。

四国遍路では無いな。

「しかし、ただ歩いているだけでは浄土である熊野には入ることができません。熊野は浄土の地であるので、熊野(=浄土)に入るには、いったん死ななければならないのです(儀礼的な意味で)。」これは四国遍路もおんなじや。

遍路も形式的な死出の旅なんや。

「発心門王子で、今まで使っていた杖を献納し、発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門が表わされた金剛杖を渡されたのは、これから道者が発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門をくぐり、成仏を遂げるのだということを現わしているのでしょう。」この思想がそのまんま、四国遍路の阿波を発心の道場、土佐を修行の道場、伊予を菩提の道場、讃岐を涅槃の道場とゆうようになったんやな。

「熊野詣とは、生きながらに、死んで浄土に生まれ変わって成仏し、そして、再び現世に帰っていくという構造そのものであったのです。」これも四国遍路の姿そのものやな。

熊野詣によう出てくるもんに、王子ゆうのがあるな。

これは本宮の神さんの御子神つまり子供の意味らしい。ほいで、熊野には九十九王子というんがあるけんど、これもよう判らんけど昔から数の多いのは数字を重ねてゆうたらしい。

そんで四国の八十八ヶ所も数の多さを意味して、熊野にひとつ遠慮して八十八にしたんやゆう人がある。

大江戸の八百八町や浪花の八百八橋よりマシかいな。

熊野には大辺路(オオヘチ)とか中辺路とかゆう参詣道があるけんど、この辺路(ヘチ)はヘンロとも読めるわな、そんで四国の辺路(ヘチ)とゆうとったんから遍路になったんやゆう説もあるで。

「我等が修行せし様は、忍辱袈裟(ニンニクケサ)をば肩にかけ、また笈(オイ)を負ひ、衣はいつとなく潮垂(シオタ)れて、四国の辺路(ヘチ)をぞ常に踏む(梁塵秘抄・リョウジンヒショウ)」

ゆう歌が有名やな。

さぁ、次からはいよいよ四国へ話しを進めますわな。ほな、今日はこれでいぬでな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の十一 「四国遍路の興り」を読む