塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の十一 「四国遍路の興り」

あっちゃこっちゃへ寄り道したけんど、いよいよ四国遍路やで。

巡礼や遍路では、お参りすることを打つゆうでな。

あれは、昔は木の札を打ち付けて、札所を廻った名残やそうな。

そんでも木の札と釘と金槌を持っての旅ゆうたら、重とうてえらい荷物やったやろな。

それに食べるもんと煮炊きの鍋、ほかに夜具や着るもんも持たないかん、えらいこっちゃで。

道も悪かった、とゆうよりろくに道も無かったみたいで、川には橋もなかったようや。

そんな道中やから、それこそ、命がけやったんや。


札を打つゆうたら、高いお堂の天井へ打つのはどなんしたか不思議やったけんど、それを書いた本があったで。

本の名前は「四国遍路の民衆史」山本和加子著(新人物往来社)ゆうんやけんど、これは遍路の歴史に詳しい本でな、実はこの塩爺の話しもこの本がベースになっとんや。

ほんで札打ちのことやけんど、壁ならハシゴで上れるけんど、天井の真ん中はでけん。

ほしたら10人くらいが輪になって肩を組む、その上に4、5人が乗って肩を組む、その上に3人、ほれから1人とサーカスみたいにして、ほんで打ったんやと。

よう考えたな。

さーて、四国遍路が熊野の修験者のお参りによう似とるゆうんは、前に書いたわのう。

この理由で考えられるんは、奈良時代、山林修行の修験道が盛んになった時、吉野や熊野の山岳を廻り尽くしたもんが、もっともっと険しい修行の場を求めて全国へ散り、遠国といわれた四国の山へも行者として乗り込んで来たんや思う。

四国ゆうたら讃岐以外は、狭い面積で平野部がほとんどの(無)うて、山から海に注ぐ川は垂直に近いとまで言われる急傾斜地や。平安時代でも、日本の3大流刑地ゆうたら佐渡島と八丈島、それに土佐の国や言われとったくらいや。

四国を「死国」ゆう人もおるで。死ぬのが当たり前、それが昔の修験者の練行(レンギョウ)やったに違いない。

修験者が乗り込んで修行の道をつけた後、今度は禅宗や山林仏教の坊さんが、これまた全国の山奥深いところへ禅定を求めて籠もりに行っとるらしいで。

それから後は、いろんな宗旨の坊さんや聖(ヒジリ)が全国を行脚して、信者と仏堂を増やしていったんやろな。

聖ゆうたらお堂に籠もって学問する坊さんやなしに、町中(ナカ)で人びとに教えを広めたり、お布施を集めてはお山へ持ち帰る、働き蟻みたいな身分の低い信仰者やった。

なかにはニセの坊さんもようけおった。

そやけんど、反対に空也(コウヤ)や一遍みたいな偉い人も聖や言われとるけん、いろんな聖があったんやな。

特に高野聖は有名やし熱心で、その数も多かった。


高野聖ゆうたら、空海の亡くなった後、朝廷や貴族の寄進で高野山が全盛期を迎えた頃、全国から僧や出家した武士が入山したけんど、高野山の壇上に属さず、周囲の山々の谷あいに住んだ、これが高野聖の始まりやと、「四国遍路の民衆史」の本に書いとる。

その後も源平の争乱期に入ると、雑多な遁世者が入山して、高野山は「三百の学侶、二千余輩の衆徒」にまでふくれあがったんやと。

それで高野聖は真言念仏と浄土信仰をもって何処へでも行き、念仏聖とも交流して金集めの勧進圏は全国に広まったそうな。

もう真言密教にはこだわらんと、念仏中心になっていったそうや。

いや、神さんでも余所の信仰でも何でも受け入れる、それが真言密教の本質やと、元高野山大学学長の松長有慶さんが書いとられるで。

四国遍路に宗旨は関係ないと言われとるけんど、ここらあたりに本質があるようやわな。

高野聖の話になったら、空海さん、いやお大師さんを知らないかんでな。

次からは空海さんについて、いっしょに調べてみるで? おいでまいよ。

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