塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の十二 「空海さんの話(幼少の頃)」

ほんならいよいよ、空海さんに話しを進めるけんど、これはちょっと難し過ぎて爺の手には負えんかも知れんで。

伝説的なお人やけん、とにかくいろんな説があって、どれがほんまかよう分からん。

まず生まれた年からにして、宝亀4年(773)と5年(774)とに分かれとる。

5年生まれゆうのんは、空海さんが中国の偉いお坊さん不空三蔵(705-774)の生まれ変わりやいうことからや。

この不空さんの死んだんが774年やけん、それより前の年に生まれたら、ぐわい(具合)が悪い。

そらそうやな。

そやから宝亀5年生まれ説が多いらしい。

不空ゆう人は、空海さんに正式な真言密教を教えてくれた中国の恵果和尚(エカ又はケイカカショウ)のお師匠さんにあたるお人やそうな。

次に空海さんの生まれた場所や。

讃岐の善通寺というのんが通説やけんど、違うゆう説がある。善通寺は父親、佐伯直田公(サエキノアタイタギミ)の屋敷があるところで、その時分(ジブン)母親は里へ帰って生むんが普通やけん今の多度津町海岸寺生まれやゆうんや。

どっちゃにしても育ったんは善通寺や。

幼名「真魚(マオ又はマイヨ)」ゆうて、頭が良かったらしいで。

空海さんのこんまいときは母親の兄、阿刀大足(アトノオオタリ)ゆう偉い儒学者(後に桓武天皇の皇子、伊予親王の個人教授をつとめた人)に読み書きを教わり、15歳で南都奈良へ連れていってもろて勉学し、18歳で大学へ進んだそうや。

田舎でくすぶっとる一族や父母が夢見る都での出世の期待を一身に受けて、それはもう死に物狂いで勉強したらしいで。

明経道(ミョウギョウドウ)ゆうて、経書を教科書にした儒教の勉強で、ここを出たら立派な役人になれる筈やった。

真魚は余裕があってか、または将来必要があると信じたからか音韻道も習ろうたらしい。中国語のマスターや。

ただ、この大学へ入ったゆう説に対して、いや、地方では名家といわれても所詮直(アタイ)程度の身分(地方長官)の子供では、地方の国学へ入れても都の大学へは入れなんだ。

そやから聴講生扱いやったゆう説もあるで。

そんでなんぼ勉強したって貴族社会の身分差別の壁は厚うて、出世の望みは薄かったゆうんや。

なんや、近年の封建社会みたいやな。

ほんでもこれ、奈良時代の話やで。

そやけんど、猛勉強したんは確かや。

頭が良うて身内から期待されるし、意欲に燃えた青年やから、勉強したやろな。

大学へ入ったかどうか、どっちゃでもええでな。

ところが思春期の少年真魚は、鋭い感性で悩み抜いて、あるとき生き方を変えるんや。

これには近所に住んどった遠縁(?)の長老、佐伯宿禰今毛人(サエキノスクネイマエミシ)の影響が大きかったげなで。

同じ佐伯姓でも、連(ムラジ)や宿禰と空海さんの直では、身分が違ごうたし、直接の縁戚は無かったげな。

それでも真魚少年は今毛人老人に近付いた。

そんで大学で習う儒教ではない、今毛人老人が信じとる仏教への関心が強うなっていったらしい。

ついに伯父さんや讃岐出身の大先輩、現在の香川県寒川(サンガワ)出身の岡田牛養(ウシカイ)大学博士の教えも振り切って、真魚は大学を飛び出して行方不明になってしもうたげな。

これからの真魚は、どこでどないしとったんか、さっぱり分からんそうな。

空白の7年とも13年とも言われとる。

国家から認証された正式な僧ではない、私度僧(シドソウ)という身分のまま、寺という寺を勉強のため巡り歩いたり、優婆塞(ウバソク)たらゆう行人(ギョウニン)になって山から山を駆け上る修験道に熱中したりしたらしい。

この決められた枠組みに入らんと、はみ出し者であり続ける性格が、後の弘法大師を生んだんや。

あのまま大学で勉強を続けとったら、優秀やけんど平凡な役人で終わったやろうとは、司馬遼太郎さんの言葉です。

創意に溢れた性格の空海さんに、聖人の教えを後生大事に守らないかんことが第一義の儒教は向いとらん。

儒教をなによりも大事にすることの弊害は、それを科挙(カキョ)という任官試験で守り続けた中国が、長いこと近代化に乗り遅れたことで有名でしたな。

さぁ、いよいよ天才の証明、24歳の空海さんが書いた言われとる、我が国最初の戯曲「三教指帰(サンゴウシイキ)」についてやけんど、それは今度にするで。

そやそや、こんな塩爺の話しについて、感想や意見があったら聴かせてもらえませんでか? 

参考にさせてもらいますんで。

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