塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の十六 「空海さんの話(奇跡のような不思議の連続B)」

そうや、空海さんの不思議なら、恵果和尚から伝法してもらうとき、反対した珍賀ゆう僧の話があったんを忘れとった。

珍賀はんは、遠い東の国から来たどこの馬の骨か分からんもんに、大事な密教を修行もさせんと授けてしまうのはいかんゆうて猛烈に反対して廻った。

ほしたところが、あくる日にお寺へ来たら別人みたいになって、みんな不平をゆうな、空海さんは密教を受け継ぐのに最高の人や、反対したわしが間違うとったゆうて廻ったそうや。

ここが空海さんの怪しげなとこや。

どない思うても、空海さんが呪術かなんかしとるで。

実はその晩珍賀はんは、、おとろしい夢を見たんやと。

夢の中で四天王にどつかれたり、蹴られたりしたそうな。

九州へ上陸して(807年)からの空海さんは、直ぐには都へ戻らんと太宰府に残り、桓武天皇の死後皇位を継いだ平城(ヘイゼイ)天皇の様子を伺ごうとったげな。都では不穏な空気が流れとる。

空海さんの中国行きを支援してくれた伊予親王は、平城天皇が即位した後、政争に巻き込まれて毒を飲んで死んどる。

その家庭教師やった阿刀大足伯父さんは、宮廷を逃げ出して隠れとったげな。それから2年、やっと官符が出て、空海さんは和泉の槇尾山寺(マキノオサンジ)へもどったらしい。

その前後に平城が天皇を辞退して、後を弟の嵯峨天皇に譲った。ほしたところ薬子の乱(810年)が起こった。

薬子にそそのかされた平城(ヘイゼイ)上皇が元の天皇に戻りたいゆうて、嵯峨天皇との兄弟の争いになったんや。

そやけんど、空海さんはそれに巻き込まれんと、うまいこと立ち回れとる。

これは阿刀伯父さんの助言があったからやと、司馬遼太郎さんはゆうておられる。

阿刀伯父さんは空海さんが九州から和泉の槇尾山寺へ帰るのを待ちかねたように逢いに行き、それからは死ぬまでずっと空海さんの側近で過ごしたらしいで。

これから後のことは、最澄さんとの交流と別れが有名やけんど、長うなるけん省略するでな。とにかく嵯峨天皇には書のほうで気に入られて、空海さんは名声を高めていった。

ここで空海さんのことを、天皇に媚びへつらう俗物的出世主義者と世間では誤解されとるようやけんど、司馬さんや他のようけの人がそうやないとゆうとられる。

空海の風景を読んだら「自分の教義の宣布のために天皇の権力は利用しても、天皇そのものは空海の宇宙と生命の思想からみてもただの人間であるにすぎない。

天皇といえどもただの人間にすぎないことを空海ほど露骨にそう思っていたらしい人物もまれであったかと思える。」やと。

元高野山大学学長の松長有慶さんも「鎮護国家といえば、外敵から国家を守護する考えであるかのように一般にうけとられているが、空海にあっては、民衆におよぶ災害を除き、福を増すため、すべての活動力を集中することを意味した。

空海の著述に、国家とある箇所は、朝廷の意味とともに、民衆をふくめて説かれていることにも注目すべきであろう。」といわれとる。

空海さんの不思議は、この他清涼殿で他宗との宗論に勝った後、嫌がらせで即身成仏の証明が出来るか、と問い詰められたとき、ほんならと結跏趺坐(ケッカフザ)して大日如来の智拳印を結んで真言を唱えたら、見とるまに空海さんが宝冠をかむり金色の光を放つ大日如来の姿になったとか、日照り続きに雨乞いをしたら、3日3晩降り続いた話しとかあるけんど、書いとったら切りないんでここらで止めとくな。

最後にひとつ、これは不思議の話しやないけんど、空海さんが造った学校のこと話しとくで。

綜芸種智院(シュゲイシュチイン)(828年)ゆうて、貴族や金持ちのためでのうて、庶民のための学校を造ったらしい。

これは原型が閭塾(ロジュク)ゆうて中国にあったらしいけんど、空海さんは日本で初めて9世紀に庶民の学門所を造ったんや。

その昔、自分が地方長官「直(アタイ)」身分の息子で、都の大学にはすんなり受け入れてもらえなんだ(とゆう説もある)、苦い思いがあったけんやろかな。

綜芸種智ゆうんは、いろんな学門と技術の可能性を意味しとるんやと。

費用はほとんどタダやったらしい。

ほんであんまり理想が高すぎて、空海さんの没後18年しか続かなんだらしい。

資金切れと教える人材が不足したせいやったそうな。

そやから、あんまりこのことは、一般には知られとらんみたいやな。爺も知らなんだで。

ほんまは、高野の地に本山を開く時、地元の丹生都此売命(ニブツヒメノミコト)が助けてくれた伝説の話しは、先住の山の民との深い関係で興味があるけんど、またにするでな。

ほしたら、空海さんの不思議の話しはこれで終わるで。今日は長うなったな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の十七 「空海さんの話(まとめ)」を読む