塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の二十 「徳川時代の始まりと寺社参りの大衆化」

今日もお参りの帰りでか。

ほんまに信心深いことやのう。

まぁ、夜道に日は暮れんいうけん、ここでひと休みして、お茶でも飲んでいきまいだ。

爺の話しは、行き当たりばったりやけんのう。

吾(ワ)がでも話しがどこへ行きょんのか、よう判らんのや。

ごめんやで。

ほしたらっと、どこまで話したんやったかいな。
 
そやそや、江戸時代になったんや。

みんな江戸時代を天下太平の世とゆうけんど、それまでは庶民にとったら無茶苦茶の世界や。

「中世まで、戦のためどれほどの農民が苦しめられたか計り知れない。

田畑は踏みつぶされ、兵士の略奪・強奪は日常茶飯事だったし、あまつさえ飢饉・災害は毎年のように襲ってきた。

さらには神仏の祟りのように流行病が蔓延し、その上、年貢・徴用は手加減なく行われる。いったい年貢の行方はどうなっていたのか。

年貢を費やす上層の人間があまりに多い。

皇族・堂上(ドウジョウ=殿上人)・地下(ジゲ=宮殿へ入れない身分)・武家・社寺の宗教者・僧兵・地方豪族・地方役人等々。

これら非生産階層が、農民の租税をむさぼっていたというのが実情であった。」とは、山本和加子さんの本の文章やけんど、なんや族議員と役人、芸能人、それに対するサラリーマンに置き換えたら、今の世相に似てこんでか?

この非生産階層のほとんどが、江戸時代には一掃されて、余った武士たちは農民に帰って行ったげな。

戦さの技術は農業土木へ振り向けられて、運河や護岸工事が行われて、農耕生産は飛躍的に増加したんやと。

米、木綿、油、藍、塩、酒、どれもこれもようけ造られた。海上航路も整備され、それまでの重とうて弱い筵(ムシロ)帆から軽うて丈夫な木綿帆になって遠路航海がでけるようにもなった。

こうなったら、あっちゃこっちゃで人手が要るようになって、仕事のない山奥や山陰、遠国からの出稼ぎが増えてきたらしい。ほんでもまだ時代は、封建時代や。

農民が他国へ出稼ぎに行くんは、難しかったげなで。

はじめに庄屋へ申し出て、目的と行き先を届け出ないかん。

ほしたら庄屋は郡役所の許可をもらう。

それから人別帳に書き込んで、往来手形を手渡す。

領主とかお上は、ほんまは農民に出稼ぎには行ってもらいとうないけんど、藩財政を潤すためにはその収入も欲しかった。

領民の商業利益からの運上金や冥加金・口銭の収入は馬鹿にでけん。こなんなると、農民も商人も、換金作物の生産とその流通をめぐってがいに(強く)動き出したんやと。

人が動いたら情報も動くでな。

なんちゃ知らなんだ庶民が、昔、旅の僧や聖から夢物語みたいに聞いとった都や他国の寺社を知る機会も増えた。

ほんで村から離れる方法をいっぺん体験したら、今度は参詣行動を積極的に実行しはじめたらしい。これが巡礼の大衆化や。

「慶安3年(1650年)、ちょうど『慶安の御触書』が出た翌年、伊勢神宮では爆発的な『御陰参り』が起こる。

これは『抜け参り』ともいい、子は親に、妻は夫に、奉公人は主人に断りなく、白衣を着て家をぬけ出し、伊勢参りするものがあいついだのである」(四国遍路の民衆史より)民衆の参詣行動は伊勢参りだけでのうて、各地の霊場巡りに移っていったげな。

ほんで、歴史の本を見たら徳川時代は慶長8(1603)年からやいわれとる。

そやけんど関ヶ原の合戦は1600年やけん、実質徳川支配はこの1600年からやろな。

慶長8年は江戸幕府を開いたゆうことや。

とゆうても、大阪夏の陣が終わるんが慶長20(1615)年・元和(ゲンナ)元年やけん、地盤を固めるんに12年掛かっとるな。

慶長20年になって地盤が固まったら、さあ、ようけ御法度(ゴハット)たらゆうもんを出して、あれをしたらいかん、これもしたらいかんゆうて世の中に縛りを掛けてきとるで。

なかでも有名なんは、夏の陣が終わって7月7日・徳川秀忠が伏見城で武家諸法度13ヶ条を発布したんを皮切りに、7月13日・年号を「元和(ゲンナ)」に改元、7月17日・幕府は二条城で禁中並公家諸法度を布告、7月24日・徳川家康が諸宗寺院法度を布告したそうな。

一国一城令もこの年や。

なんと家康はこの翌年に亡くなっとるけん、死ぬ間際まで院政みたいなんを敷いとったんがよう分かるでな。狸親父やゆわれる訳や。

この中で、寺社に対する統制ゆうたら寺院法度(ハット)の「本末制度」が重要やったわな。

これでいままでみたいに誰でもが自由な開祖はでけんようになってしもうた。

地方の寺院はみな本山に所属せないかんようになった。

大本山−中本山−直末寺−孫末寺とゆう本末組織をつくらして、まんで(すべて)幕府の支配下においたんや。

このとき、大寺院に属しとらん正式の僧でない「聖」たら言うんは存在が許されんようになって還俗させられ、山から追い出されてしもた。

行き場のないもんは、どっかの村の百姓か職人にならされた。農民は「宗門人別帳」に全家族と奉公人の名前、年齢、所属寺院を書かされた。後世の戸籍簿の基やな。

これで漂泊の民以外の日本人のほとんどが、仏教徒にさせられてしもうたんや。

キリシタンの禁教令は、この3年前の慶長17(1612)年に出されとる。

「宗門人別帳の手続きは、一家を代表する戸主が捺印し、さらに庄屋が捺印し、最後に檀那寺が捺印して完了する。村民は一度加入させられた檀那寺の寺替えは許されず、檀家として檀那寺にかかわる物入(維持費)を納めることを義務付けられた。」(四国遍路の民衆史より)

おまはんら、知っとるでか。

21世紀のいまでも、古い集落では寺からしょっちゅう集金が来とるんで。

年寄りは黙って払ろうとるでな。

こなんして世の中が泰平になってきたら、これまでの武器製造で発達しとった技術を基にして、農耕技術が進歩してきたんやと。

百姓の生活もちょっとづつ豊かになって、ほんで娯楽や快楽に関心が向かい始めた。

ほしたらや、こなんことしとったら年貢が取れんようになるけん、前にも書いたけんど贅沢禁止のお触れ「慶安(1649)の御触書」が出た。

そんだけ贅沢がお上の目についたゆうことやわな。百姓が米や豆腐を食うのはいかん、雑穀を食べさせろとか、朝から晩(バン)まで働け、そんで大茶を飲んだり、寺参りしたり、遊山が好きな女房は離別させろ、果ては食の足しにもならんタバコは禁止すべきや、ゆう厳しい内容やった。

これでみても、寺社参りが普通になりかけとんのが、よう分かるでな。前にも書いたけんど、伊勢神宮での爆発的な「御陰(オカゲ)参り」が起きたんは、御触書の翌年・慶安3年やった。

民衆のエネルギーが溜まると爆発するこの御陰参りは、これからだいたい60年に1回の割で起こっとるげな。宝永4(1705)年、明和8(1771)年、天保元(1830)年、ほんで明治維新前の慶応3(1867)年に起こった「ええじゃないか」騒動につながるらしい。余談やけんど、この慶応3年に生まれた有名人は、ほらようけおるで。

尾崎紅葉、夏目漱石、正岡子規、南方熊楠、宮武外骨、伊東忠太、書いたら切りがないくらいや。

興味のあるお人は、一ぺん調べてみてんまい。面白いで。

閑話休題(話を元に戻すことの意味)

こなんした大衆の動きが活発化した時代、京都の智積院の僧・澄禅(チョウゼン)の「四国辺路日記」ゆうんが書かれたげなで。

これが一番古い四国遍路の記録や言われとる。承応(ジョウオウ)2 (1653) 年に四国遍路へ向こうたらしい。

この頃の四国はまだ死国に近い道路事情や。

澄禅はんは、高野山小田原谷に住んどった元高野聖やったらしい。

寺院法度で真っ先に真言宗大寺院が整理に会うたらしいけんど、澄禅はんもたぶんそんで京都の寺へ移ったんやろな。

そこからの遍路旅や。

その時分は、まだ路も整理されとらんけん、遍路旅とゆうより修行そのもんやな。

とゆうたところで、今夜(こいさ)も時間や。

遅うなったけん、これまでにしとくでな。次からはほんまに四国遍路の旅や。

ほしたらまた逢おうで。気ぃつけてな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の二十一 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読む@を読む