塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の二十二 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読むA」

なんやこの遍路譚が、初めて四国のお遍路さんの旅の話らしいになってきたな。

ほしたら、続けて小松島市の立江寺へ向かうで。

ゆうとくけんど、時代は江戸時代の初めころやで。

「立江寺(19番)から鶴林寺(20番)までは入江が寺の奥まで入っている低地で、高い山上まで潮垂(シオタレ)れて行くかと思うと、草むす山道を上っていく。

寺からさらに二里先の奥の院へ上っていき、奥の院から下って途中、愛染院に一宿する。

夜雨が降り、翌朝下っていくと大河に出会った。

水かさが増して渡し船はない。

上下する舟人に向かって手を合わせ、ひざまづき頭をさげ、ふたとき(四時間)ばかりお願いしつづけ、やっと舟で渡らせてもらうことができた。

その先は深谷で人里なく、細川を渡って大きな坂を上り、太龍寺(21番)に着いた。

備前の衆聞寺の行者八人と会い、その中から引導の僧に白銀二銭をあげて先達になってもらい、松明(タイマツ)を持って進み、秘所を巡拝した。

深谷の不動堂は恐ろしき所であった。

みな慈救の呪を高唱して奥へ進むと、コウモリが幾千万となく向こうへ飛んでいった。

岩屋の中三尺たらずの所を這って前進すると、そこに一尺二〜三寸の金銅の不動尊があり、みなで呪を誦じた。

それから平等寺(22番)へ向かった。」

この大河ゆうたら那賀川やろな。

ここいらがどの辺か判るでか?

今の阿南市付近やな。

空海さんが修行したと三教指帰(サンゴウシイキ)に書いとられた太龍寺(タイリュウジ)や。

この太龍寺は西の高野言われるくらいやけん、やっぱし難所やな。これから薬王っさんを詣って室戸へ向かうんやけんど、ここからはまんで山また山の獣道(ケモノミチ)だらけや。

ほんでも海部(カイフ)ゆう地名があるけん、律令時代から朝廷へ海産物の献納はしとったらしい。

海部あたりで魚売りを「いただきさん」ゆうけんど、高松でも同じや。

船での行き来があった名残やと。

この辺の交通の便は、みんな舟やった。

土佐日記で有名な紀貫之さんも、都と土佐の行き帰りは舟の旅やったわな。

「平等寺を打ち終わってまもなく行くと大河があり、帯をぬらすほどの洪水の中を渡って河辺の民家に一宿する。

薬王寺(二十三番)から地蔵寺まで五里の道も海にかかる細道を上下する難所であった。

海部の大師堂(辺路屋)で札を納める。

海部の前で大河に出会う。

渡し守はなくて浅い所は歩渡りしたが、深い所は上下する舟に便船を乞うた。

観音寺・薬師院・唱満院の真言宗の寺を経て鹿喰(シシクイ)に着く。

阿波の太守が命じた無料の辺路屋があり、野根に行くとここにも藩提供の大師堂兼辺路屋があった。」

一般大衆までいかんけんど、この時分も行者や修行僧や逃亡者や隠者、その他訳の分からんもんがようけ歩いとったんやな。

中世時代の絵巻もんでも、得体の知れん覆面者が歩いとるでな。学者先生も、あれは何やらよう判らんゆうとられる。

藩を預かる殿様も、遍路の保護には神経を使こうとったんが「阿波の太守が命じた無料の辺路屋があり」ゆう説明からもよう判るでな。

ほして、これから土佐の国や。

「土州(土佐)に入ると、飛び石・子石という所の三里ほどの難所があり、民家は一つもなかった。

室戸岬に向かう道で、鞠(マリ)ほどの石を敷きつめたような山をとび越えとび越えていったが、上の山にはいくつも重なっている大石が今にも落ちてくるかと思われるような危険な所である。

そこは岩肌に爪をたてて通ったが、三里もある長い難所だった。

仏崎で石を積み重ねた所に札を納め読経念仏した。

ここから七里先まで、米一粒もないという食糧の乏しい村々を行った。

岬の東寺・津寺・西寺(二十四,二十五,二十六番)を巡る。

ここは大師が御修行なされた求聞寺堂がある。由緒ある石像・堂のすべてを巡った。」

室戸岬の二十四番は普通、最御崎寺(ホツミサキジ)やけんど、ここでは東寺になっとるな。

ひまつぶしに、面白い話をひとつするで。

今の高知県東洋町から室戸岬へ行く途中に、佐喜浜ゆう地区があるけんど、ここの国道に横断地下道があるの知っとるでか?

道幅はたったの5、6mくらいの狭いところで、車もめったに通らん国道やけんど、なんでか知らん横断地下道があるんや。

あれ、笑うで。

歩きの方は、ぜひ見付けていた。

ほんで意味が判ったら、教えて欲しいな。

沖縄のこんまい(ちいさい)島には車の交通がほとんどない学校の前の道路に、教育的体験施設ゆうことで信号機があるけんど、あれと同じ意味やろか? 

長ごうなってしもた。今日はここまでにしとくで。

ほな、またな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の二十三 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読むB」を読む