ようお出でました。
旅は土佐の国になっとるで。
何遍もゆうけんど、時代は徳川の初めころや。
交通は馬も車もない、海辺の海岸沿いか、山のけもの道をたどるようなもんを想像しもって行こうでな。
「八月十一日、大日寺(二十八番)から土州国分寺(二十九番)まで三日かかった。
国分寺近くに眠り川という、一睡の間に洪水になるという川に出会った。
舟でも渡れない大水である。
暮れまで待ったが雨は止まず、近くの田嶋寺一泊。ここの住僧はもと高野山にいたという人で、互いに酒を汲みかわす。
古寺のため雨もりして枕がぬれて眠れなかった。」
前回の室戸から、もう安芸市、南国市へ入っとるで。
この辺の大きょい川ゆうたらたぶん物部川やろな。
27番の神峰(コウノミネ)寺が抜けとるけんど、番号はもっと後から付けられたんやけんしょうがないでな。
距離の割に寺がすけ(少)ないんは、そんだけ人口密度が低い未開地やったんやろな。
「雨の中を高知城下の寺々で五日間逗留する。どの寺も太守の命令で立派に再興してあり、とくに五台山(竹林寺・三十一番)は美麗を尽くしていた。高福寺(三十三番)から清瀧寺(三十五番)まで渡りにくい川を歩き、新居戸の渡りという川に出る。五日以上、川留めになっていたので、多人数舟に乗り込んだため、足を踏みはずして男女四人、満水の川にのまれて死んだ。」
「八月二十九日、清龍寺(三十六番)より新田五社(三十七番岩間寺)までの間、悪しき川あり、坂つづきの難所である。カトヤ坂という大坂を越え焼坂を越えると、さらに十倍もの土佐無双の大坂がある。上って下って川を渡ってまた上って下る。平地はほとんどない十三里の道のりであった。」
高知市から須崎市、土佐市の山道やな。
青龍寺は土佐市で、横綱朝青龍が世話になり、名前をいただいた寺やそうな。
ついでやけん、ここで太守ゆうたら、時代的には山之内一豊(1600年に初代土佐藩主・1605年没)の次の代・忠義になるで。
澄禅さんが旅に出たんが1653年で、山之内忠義が隠居するんが1656年、あの名家老の野中兼山が絶頂の時や。
藩の改革が進んで、寺も立派に再建でけたんやろな。けんど主君忠義が隠居したら、途端に反逆者ゆうて切腹させられとる。
この野中兼山については、大原富江さんの「婉(エン)という女」ゆう小説に詳しいけん、それを読んでいた。
封建時代の理不尽さが見事に描き出されとって、そらぁ壮絶な内容やで。
「九月二日、坂を上って下って川を渡り田浦という浜へ出た。一面の砂浜で、海士(アマ)どもが塩焼きの仕事をしていた。男女の区別がつかず、女らしき者は児を脇にはさんで仕事をし、潮を汲むときは児は白浜に放置したままであった。長い柄で潮を砂上にまいている有様で、まことに浮世を渡る稼業は並大抵のものではないと思った。」
ここはどうやら土佐中村の手前の田野浦げなな。
炎天下で働く里人が、男女の区別がつかんゆうとるけんど、ちょびっと前までの日本の田舎でも当たり前やったで。
漁師町のうちの婆さんなんども、夏は腰布ひとつで裸やった。
男もおなごも赤銅色や。
「大雨大風つづきになる。峯から谷に大石が落ちて歩きようがない。やっとのことで一瀬という所へ着いた。足摺山へはまだ七里先という。五日間かかって足摺についた。足摺山は補陀落世界にて本尊は千手観音、大師の御影、ビンツル(ビンズル)、鎮守熊野権現、薬師堂、役ノ行者堂、宝蔵すべてある。岬を巡ると刃の如き岩石もある。そこで出発のとき一緒だった高野の辺路衆に再会した。逆打ちで巡っていたのだ。互いに涙を流して無事を喜び合った。」
ここに書かれとるビンズル、爺も知らなんだ。
なんでも羅漢さんのひとりで、頭を撫でたら除病の御利益があるんやとな。
足摺の寺名が書かれとらんけんど、ここは今の三十八番金剛福寺や。
これで土佐の国は終わりや。
これから伊予の国、ほんで讃岐へと続くけんど、これからは山本先生が疲れたのか、たいして険しい内容の記述がなかったんか、えらい簡潔に終わっとる。原本を知らんけん、爺も補足でけん。
ほしたら、この澄禅さんの四国辺路日記もあと2回で終わるで。
その次は、まだまだ興味深いお話しが、この「四国遍路の民衆史」には書かれとるけん、紹介させてもらうで。
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