塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の二十七 「真念さんと寂本さん」

この前は、真念さんの話しやったな。

四国八十八ヶ所の寺を1番の霊山寺から八十八番の大窪寺まで、固定してしもたんは真念さんゆうんは、もう通説になっとります。

熊野の九十九王子に対応してか、真念さんよかずうっと昔から四国八十八ヶ所たらゆう名前は付いとったらしいけんど、具体的にはどの寺が何番かは決めてなかった。

ほやけん真念さんが出てくる前までは、88よりずっとようけ(沢山)の寺や神社を札所として廻っとったらしい。

大阪から和歌山、淡路島を通って、徳島へ上陸するんは南海道の道順からゆうて当然やったわな。

これから考えても、1番寺に徳島の鳴門の地を選んだんは、四国遍路が本土側に住んどるお人の考えから始まったゆうんがよう判るでな。

ほやけんど、真念さんみたいに何遍も四国へお参りしとって、お大師さんが歩かれた道をそのまま辿りたいと思うたら、そのたんび(度)にお参りの札所が違ごうたらおかしいで。

真念さんは50年間で20数回のお参りや。

2年に1回やで。

それやのに四国には88よりずっとようけの札所があって、廻り切れん。

こらなんとかせないかん、そなん思うんは当たり前かもしれんわな。

ほして鳴門の霊山寺を1番寺に決めた。

それから88の寺をきっちり決めた。そやけんど、どなんしたって収まり切らん寺が残るでな。それは番外ゆうことにしたらしい。

あら、そうそう、前回は寂本さんゆう高野山の偉い学僧に、真念さんは資料を差し出して、弘法さんの霊験記や功徳話を書いてもらいに行った話しをしたわな。その続きを書くで。

山本先生の「四国遍路の民衆史」には、こなん書かれとります。

「寂本は遍路の経験こそなかったが、真念の熱心な説得に感じて承諾した。真念の収集をみると、あたかも現地に行ったような思いにもなったし、そのうえ年老いて遍路の時機を逸した悔悟もあって、霊場記をものにしてみようという気になった。こうして寂本は真念の資料を取捨選択し、読みやすいように和文で書き、『四国(偏)礼(ヘンロ)霊場記』を編纂したのである。」

そやけんど、寂本さんは真念さんの資料どおりには書かんと、学僧の誇りと独自の見解で書いたらしい。

「八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず、今は其番次によらず、誕生院(善通寺)大師出生の霊跡にして(偏)礼(ヘンロ)の事も是より起れるかし、故に今は此院を始めとす」

こなんゆうて七十五番の善通寺から出発としたらしいで。それから、それこそ真念さんが学僧の高い学識と見識から権威付けてもらいたかった各寺の言い伝えや霊験譚も、寂本さんは切り捨てた。

「寺の縁起は個人的なあて推量や勝手な意見でつくられたものである。本書は私記ではないので、道理に合わないものは取りあげない」「書物というものは古い昔のことを調べ後世に伝え、模範として人々の迷いを解き、道を弘める器なのであるから、でたらめな妖怪変化の類は書かない。」

こなんして、案内書や手引き書みたいな要素のない、学術書みたいな豪華本が数年の歳月をかけて出来上がったんやと。

言葉も普通の遍路や辺路を嫌うて、(偏)礼(ヘンロ)の雅字を使うたらしい。ここでお詫びしますが、(偏)の文字はほんまはギョウニンベンでないといかんのやけんど、この字がどなんしたってパソコンに見当たりません。苦し紛れの当て字です。堪忍な。

これでは真念さんは納得でけん。仏さんの功徳こそが救いやと信じとる民間伝道者の頭陀には、学問的な知識は二の次で良かったんや。

それが寂本さんに無視された。そしたらどうな、こらえ切れんでわが(自分)で第3番目の本を出してしもた。

こなんなったら執念やな。その名も、寂本さんの「四国(偏)礼霊場記」に対して、「四国(偏)礼功徳記」にしたらしい。

ここで山本先生が本の出資者を書いとられるけんど、寂本さんの本はもの凄う金が掛かり、大坂木屋市良右衛門を始め、おんなじ木屋の野口氏や100人近い人たちが出資したらしい。

真念さんの第3の本も、やっぱし大坂木屋市良右衛門を中心に、25人の支援者の名前があるらしい。

このあたりのことを山本先生は、こないに分析しとられる。

「四国や近畿の農村に住んで、そこにいた父祖をもつ助縁者たちが、時代の急激な発展に伴って大坂へ来て商人となってまがりなりに成功したとはいえ、捨ててきた故郷への呵責と思慕はうち消すことができなかったのであろう。」

この出資者の資金は、「喜捨」と表現されとるげなで。ほんで、この3冊のうちでは、豪華本の寂本さんの案内書があんまし評価されんと、真念さんの「四国遍路道指南(ミチシルベ)」に人気が集まって、1部百文もしたけんど売れ行きがようて次々と版を重ねて、江戸時代を通してのロングセラーになったんやと。そいで、この本の売れ行きに重なるみたいに、四国へのお遍路さんの数が増えていったそうや。

こなんして四国遍路が大衆化していったげな。

日本中がお伊勢参りや観音霊場、金比羅参りや四国遍路みたいに、参詣者で溢れていったんやな。

ほしたら昔の人の望郷の念と遍路への郷愁が、どんだけ激しいもんやったんか、改めて考えてみるでか。丁度ええ案配に、山本先生の本に時代を超えて明治以降の北海道移民が大師信仰を求め、その求めに応じて霊場をこさえ(造っ)た話があるけん、これを紹介させてもらいます。

ほしたら次は、北海道の大師信仰と観音霊場の話です。ほなこれからも、気ぃ付けて行きまいよ。

塩爺の讃岐遍路譚 其の二十八 「北海道移民の歴史」を読む