塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の二十八 「北海道移民の歴史」

ようお出でたな、ほしたらぼちぼち行くでか。これから北海道の旅や。
 
北海道ゆう地名は、明治の時代になって出け(来)た名前や。

それまでは、蝦夷(エゾ)地とか蝦夷(エゾ)ヶ島ゆうとったらしい。

明治の新政府があれこれ考えて、東海道や南海道を真似て北海道にしたんやと。

普通、道は線やけんど、北海道だけは道路でのうて行政区になっとんのが奇妙やな。

ほんなことはどっちゃでもええんやった。

明治新政府は北海道を作ったけんど、肝心の人手が足りん。ほんで明治6年に屯田兵を全国から募って、土地の開拓や北からの国土防衛に当たらした。

初めは戊辰(ボシン)戦争で負けて行き場の無うなった東北各藩の武士や禄を失しのうた武士の救済を目指したけんど、絶対数が足りん。

それにだいいち元武士みたいなんでは農業の経験が無いけん、開墾は失敗ばっかしやったらしい。

それでこんどは一般の平民にも募集を広げた。

応募したんは生活困窮者がほとんどで、貧乏な県ほど人数が多かったげな。ほしたら1番が石川県で、2番目が香川県やったんやと。

各県でも窮民の救済に手を焼いとったけん、無茶苦茶な嘘で、さも未開の地は前途洋々で、地上の楽園みたいな紹介をしたらしい。

まんでドミニカ共和国か「北○○」の話みたいや。

その嘘がどなんもんやったんか、山本先生が詳しいに書いてくれとるけん引用してみるで。

明治24年7月、高松市の興正寺別院で、時の県知事が「・・・他県に比べて 三倍近くの人口密度の高いわが県は、あまった人口は路頭彷徨の餓鬼に陥ることになるであろう。わが県の財を尽くして救済に投じてもこれは不可能である。県下人民を移して北海道に住まわしめば、わが県の前途にとって幸いであるし、最親の同胞をして未開金穴を握らしめんとす。すなわち禍を転じて福と為すものである。そしてその福たる北海道は耕耘(コウウン)に適する肥沃の平原三億万坪に余り、牧畜に適するもの一千万坪に近く、蔬菜竹木至る処に叢生して人の彩るに任かせ、魚介は河海に満ちて人の獲するに任かす。居ること三年にして五町の良田を開拓し得べく、其の最も勤勉なる者にありては五年、六年に至って十町の良田を招き得るに難からず」と説得したらしい。そんで明治25年、1,100人もが移民したんやと。

ようこんだけ嘘がつけたもんや。

ほんまのことは、次の記述が教えてくれるで。

「明治三十六年、道内三十七ヶ所に計七千三百三十七戸、約四万人が入植したが、まだ当時は北海道は国有地でなく、新政府の高官や華族に『無償貸付、成功後は無償付与』とタダ同然で官有林原野の払い下げが行われていた。開拓民は小作人という形で入植した。」「香川県移民が一番多く入植した所は雨龍郡南秩父別で、そこは元阿波藩主の蜂須賀家の所有地になった所である。のち小作人が高額な小作料に怒り、争議を起こした、かの悪名高い『蜂須賀農場』となる。」

もうひとつ、県知事の嘘八百の移民政策よかちょびっと前に移民した人たちの例が、北海道移民の困難として書かれとります。

これ見たら、ほら苦労しとるんがよう判るで。

「明治二十年四月、(香川県で教員をしていた)岩倉三代吉たち三家族は北海道有珠郡伊達村に着いたが、移民地に行くには湖面を渡らねばならなかった。だが、だれも助太刀する人はいない。岩倉たちはしかたなく、わずかに雨露をしのぐべき仮小屋をそこに建てて妻子を休ませ、男たちは東西に奔走して、腐りかけた舟をみつけて、三家族全員が湖畔を渡った。」「小屋をつくって起き伏し、湖魚や野草をたべて飢えをしのいだ。貸付指定の土地一の原、二の原はことごとく樹林で、熊や山犬が白昼横行し、土地は劣悪をきわめていた。」「さっそく岩倉ら男たちは四方に奔走して、洋犂(スキ)などの農具、牛二頭、馬六頭を買い求め、四十町余(40ヘクタール)を開墾しはじめたが、郷里から持ってきた種(タネ)類はことごとく用をなさず、芋や大豆、ソバ、キビ、粟の種を必死になってあらためて買い求め、三十余町歩へ播(マ)いた。八月十二日大霜が降りた。温暖な香川県にいた者たちにとってはそれは考えられなかったことである。青々と繁茂した作物は一夜にして枯死状態になり、九月初旬にいたって、ほとんどの作物が腐敗してしまった。芋がわずかに獲れただけである。」

「人びとはみな絶望の底にたたきおとされ、集会を開いて善後策を話し合ったが、明年のことを憂う人は退散していき、極力開墾していこうという人だけがとどまることになった。彼らはその年は出稼ぎしてわずかな賃銭で妻子の食を求めるほかはなかった。」「はじめての冬は飢えと寒さで文字どおり生死と隣り合わせであり、馴れない気候風土と過労で病に倒れ、死者も少なからず出るありさまであった。それでもしだいに土地に馴れ、開墾もわずかながら軌道にのってきた。近隣といっても数里もあったが、彼らは互いに扶助し合いながら、少しずつではあっても生活に余裕ができるまでになってきた。」

こなんして、生死を賭けた苦労の中で年月が過ぎ、過酷な極北の気候風土にも慣れて余裕が出てきたら、想い出すんはあのぬく(温)かった讃岐の田園風景やなぁ。菜の花畑の揺れに紛れて歩く遍路の白装束と鳴り響く鈴(リン)の音が、幻の面影みたいになって望郷の念を強めたらしい。

こんな話は、ハワイ移民の歴史でも聴いたで。

ほしたら次は、北海道で始まった大師信仰のお話しや。まんで万葉か平安の時代にあった地獄みたいな生活の連続から、極楽浄土を夢想して遍路旅を作り出していった人たちの話と似てくるで。ほな、またな。

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