塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の三十 「山本ラクと北海道三十三観音霊場」

さぁ、今日も行くでか。北海道の話やったな。
 
明治も終わって、大正時代や。

四国の開拓者が入植して30年が過ぎた。あっちゃこっちゃに出け(来)た大師講の仲間では、いつからか四国みたいな札所参りの巡礼が夢みられるようになったげな。

ほしたら、その夢を実現してしもうた人が現れたんや。現代の真念さんや。
 
大正の初め、徳島県に山本ラクゆうオナゴシ(女子)がおられた。生まれは弘化2(1845)年ゆうけん、もう60をとうに過ぎとる。

ラクさんは徳島の板野で農家に生まれたけんど、どなんした不幸か家族のほとんどが若い時分に死んでしもうたげな。

ほんでも20歳で結婚し、長女を生んだ。

ほれから何があったんか判らんけんど、離婚して長女と2人暮らしになった。田舎では暮らしにくかったんか、田畑を売り払ろうて、徳島の町に出て旅館を始めた。商売はものすごう繁盛したけんど、娘が24歳で死んでしもうたげな。ラクさんは40歳過ぎやな。

ほれから直ぐに養子を貰ろうたげなけんど、この養子にも26歳で死なれてしもうた。よっぽど家族運に恵まれんお人やったんかな。ラクさんも、もう60歳過ぎや。

ここから山本先生の文章です。

「人の世のはかなさ、むなしさを知ったラクは、最後の気力をしぼって、心のやすらぎを宗教に求めていった。」「ラクの故郷徳島県も香川県と同様、二十年前から北海道へ、数多くの若者たちが移民していった。北国のきびしい寒さのなかで闘っている同胞に思いをはせ、開拓者の心の支えになるなら、私財を投げ出してもいいと思った。血を分けた家族はもう一人もいないが、お大師様を信仰している同郷者なら家族同様なのだ。その人たちが大師講をつくって励まし合っているというではないか。そうだ、霊場をつくってあげよう、とラクはそう決意したのである。」

大正元年、ラクさんは北海道へ単身乗り込んだ。

徳島出身の人たちはものすごう喜んで、こぞって協力を申し出たそうや。

ほら嬉しいわな。

どっちゃか言うたら、故郷を捨てて出てきたもんは後ろめたさ心を痛め、反対に故郷に見捨てられたみたいな空漠とした気にもなっとるで。

そこへ霊場をつくろうゆうて、全財産を持ったオナゴシ(女子)が現れたんや。

ほんまは、ラクさんは八十八ヶ所をつくりたかったげな。

ほんでもそれは体力的に無理やし、肝心の受け入れの寺の数も足りんで、しょうことなしに三十三の観音霊場にしたそうや。

ここに北海道の霊場を説明したホームページがあるけん、そこから引用してみるでな。

「徳島県出身の山本ラク(得度名・善真)さんの発願により、大正2年(1913)真言宗の寺院を中心に観音像が配納されたのをもって開創とします。ラクさんが徳島市での旅館業を整理し、全私財を投じて造顕された三十三体の観音像は名古屋の名仏師『八代目亀井義門(後に慈応)』の一刀三礼によって謹刻されたもので、西国三十三観音霊場の各御本尊を縮尺したものです。」

もうひとつ別のHPでは「像を安置する台座には『施主.山本ラク一力』と書かれています。

つまりラクさんの独力で奉納されたことが分かります。

この観音像の開眼は開創の前年、大正元年名古屋市において当時の高野山の管長を迎え盛大に行われた。

ラクさん68歳の時でした。

この霊場開創に当たっては、ラクさんの出身地の徳島県板野郡から開拓にやってきた人々が物心両面の協力をしました。又札所の配置においては道内寺院の住職が力になりました。」

こなんして、函館を一番に道内全域を廻れるような三十三の札所が出来てしもた。

楽しみのすけ(少)ない開拓村は、歓びに溢れたと思うで。

ほれからのラクさんは「霊場設立後大正7年(1918)しばらく旭川市に大師教会支部を設け信仰生活を送りますが、大正12年故郷徳島に帰り、菩提寺の円行寺に身を寄せ、大正15年1月17日82歳の生涯を静かに閉じました。」ということです。

さあそれからや。

所は大正時代の北海道や。

交通の便も悪いし、社会情勢も戦争がらみで不景気が続いとった。ほんで「この霊場が開創されたとはいえ、自然の厳しさ、経済状況等から霊場を訪れる巡拝者は有りませんでした。

しかし、山本ラクさんの強烈な信仰の火を消さぬようにと資延憲英僧正の努力により、開創から75年がたった昭和60年、霊場会が発足し北海道三十三観音霊場が蘇りました。」となって今に続いとる訳です。

いつの時代も、どなんな場所でも、人間はなんぞに縋りたい想いが湧くもんらしいで。

これが巡礼の興りですわな。

えらい長いこと、巡礼の興りを訪ねて歩きましたな。

ここらでちょびっと休むでか。

お別れするんは淋しいけんど、またいつか逢おうでな。

あんまし四国遍路のことでは、おまはん等の参考にはならなんだと、申し訳のう思うとります。

爺の力不足やな。恥ずかしぃ限りですわ。

と、書いたところで、忘れとりました。

「往来手形」のことを書くゆうとったな。

こらいかんわ。

まだ終われんでな。

ほんなら、ま一辺気ぃ取り直して、次に手形と行き倒れの事情みたいなんを書きます。

では、またちょびっと付き合うていたな。

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