塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の三十一 「往来手形」

ようけ歩いたでなぁ。

ほんでも何百年も前から人間はこなんして歩いとったゆうんやけん、お遍路さんゆうんにはなんぞがあるんやろな。

これはもう宗教の枠を超えとんとちゃう(違う)んな? どうしてやゆうたら、仏教徒でもないキリスト教のお方でも、四国霊場を歩いとったら気持ちがええゆうとるで。

世界中に巡礼の道ゆうんがようけあるげなけんど、よう考えてみたらほんまに不思議でがなぁ。

これとゆうんも、わしら人類はどこから来てどこへ行くんか、ように判らんのや。

ほんでもみんな、我ががどこから来たんかを知りとうなるわな。

ほしたらみんなめんめ(自分)が来た道を捜し廻るみたいに、故郷(ふるさと)回帰の衝動が起こるみたいやで。人間ちゅうんはだいたい衣食住が満たされたら、あれこれいろせなこと考えるもんで。

あれこれ考えよったら、まだ見たこともない土地の話を聴いたりして世界の広さを知ることになる。

ほしたらみょうげにそれに憧れたり、遠くにあるげな都たらいうもんに恋い焦がれたりして、居ても立ってもおられんげになるんやろな。

昔、井上靖(やすし)ゆう小説家の詩集に、こんなんがあったで。

こんまい村の入江の砂浜があって、漁師の若もんが海の向こうにあるいう都に恋い焦がれる話やったな。

毎晩毎晩浜辺へ出ては水平線の向こうで明々と光り輝く都を想い描いて、その若もんは右へ左へ波打ち際を走り回る。食べるもんも飲むもんも喉を通らんと、ついに若もんは水辺で倒れてしまう。月だけが若もんを照らしとるような、悲しい内容やったかな? 

題も中身も忘れてしもうたけんど、異郷に焦がれる民衆の心根みたいなもんが、みょうげに記憶に残っとんや。

江戸時代も中頃になったら情報が一杯溢れだして、庶民の知的レベルは向上したし、お伊勢参り、金比羅参り、ほれに西国、板東、ほして四国遍路とその数はようけ増えたげなな。

もうこなんなったら抑えられんで。

とゆうても異国への旅は一般庶民には高嶺の花で、はじめに巡礼に出掛けたんは経済的にゆとりのある庄屋とか分限者(ぶげんしゃ)らやった。

その時分の納め札には、名字の付いた名前ばっかしが残っとるらしいで。

ほんでも勝手に在所を離れられんわな。

そこで出てくるんが通行許可書みたいなもんや。

これを「往来手形」と呼んどるで。発行するんは檀那(菩提)寺や。徳川幕府が本末制度を徹底させて「宗門人別帳」が完成しとる証拠やな。

いまの住民基本台帳みたいなもんや。

試しに適当な見本をインターネットからコピーしてみるで。

─無断借用やけんど、こらえていたな。─

【読み下し文】四国往来手形の事
一 山崎寿丸殿領分備中国川上郡増原村政右衛門と申す者并(ナラビ)に同人娘さと〆て弐人、右の者共宗旨は代々真言宗にて拙寺檀那に紛れ御座無く候。然る処、心願御座候に付、今般四国順礼(巡礼)に罷り出で申し候間、国々所々御関所滞り無く御通し下さるべく候。若し行暮候節は止宿へ仰せ付け下さるべく候。万一何国にても病難・病死等仕り候わば、其の時の御作法に御取計らい下さるべく候。尤も国元へ御付届けに及び申さず候。其の為往来手形仍て件の如し。
  文政十三年寅二月日         同国同郡同村                      宝蔵寺(印)
  国々 御関所
  在町 御役人衆中

前書の通り相違御座無く候間、宜敷き様願い上げ奉り候以上。
                          同国同郡同村庄屋
                              作右衛門(印)

これを見たら江戸の終わり頃げなな。

年表を繰ってみたら文政(1818〜1829)年間は12年までやったらしいけんど、ここでは13年になっとるな。まぁ、ほんなんはどっちゃでもええでが。

この往来手形ゆうんは、初めごろは檀那寺の住職が旅に出る人間が仏教徒であることを証明する「寺請(てらうけ)証文」ゆう身分証明を書いた。

それとは別に、村役人が出国を証明する「村送り証文」を書いたもんらしい。

初めはその2通に分かれとったんが本来の「往来手形」らしい。それが後になったらだんだん形式化して1枚にまとめられて、その内容も行く先々までの手配を考慮して処遇を頼んだり、仕舞には行き倒れたらその土地の作法で弔って、いちいち国許へ連絡は要らんとまで書かれるようになったげな。

ここでよう間違われるんに、この往来手形とは別の「関所手形」ゆうんがあったげなな。

関所ゆうんは幕府や各藩が決めた街道の監視場所で、この手形には寺の署名は無うて村役人の署名と用件が書かれとるだけや。

特に厳重に取り締まられた「出女に入り鉄砲」ゆう言葉が有名やけんど、これは江戸幕府の取り締まりで、「出女(でおんな)」ゆうんは江戸屋敷に住まわした大名の妻女が黙って江戸抜けするんを防ぐことやった。「入り鉄砲」ゆうんは反乱に使われる鉄砲が江戸へ入るんを防ぐ意味やったらしい。

この「往来手形」と「関所手形」を総称したもんが、通行手形になるゆうことですわ。

話が逸れたけんど、この「往来手形」に書かれた、どこで死んでもその土地の仕来りで葬ってくれゆうんは、その時分の四国遍路の旅がどなんおとろしげなもんやったかとゆうことを意味しとるわな。

ほしたところがこれとは別に、昔の業(ごう)病に罹(かか)って家族と一緒に住めんようになって死ぬまで歩き通す定めを背負うたらしい人に、寺の署名もない村役だけの手形を出しとるんがあるけんど、これが「捨て往来手形」げなな。

その人らは、生まれ在所や家族のもとへいね(帰)るあてもなかった、辛い話や。

白衣(びゃくえ)がほんまの死に装束で、菅笠が棺桶の蓋代わり、金剛杖が墓標に見立てられとる、それが四国遍路の持っとるもうひとつの顔やったげなな。

ここで話を変えて、もうひとつ四国遍路で忘れてならんことがあります。

「お接待」や。

これがいつごろ言われ出したんかハッキリはせんけんど、四国遍路の代名詞みたいになっとりますな。

あらいかん、えらい時間を食うてしもうとる。

「お接待」の話をしょう思とったけんど、時間や。

四国の接待と行き倒れの話は、次にするけんな。

ごめんで。

塩爺の讃岐遍路譚 其の三十二 「お接待」を読む