塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の三十二 「お接待」
今日は、「お接待」について話しするけんな。

例によって、山本先生のご本「四国遍路の民衆史」から引用させてもらうで。

先生は、どんな貧しいもんでも長旅の遍路に出られたんは、四国で「お接待」があったけんやといわれとる。

米、味噌、野菜の食べもんや、ワラジ、手ぬぐい、ちり紙みたいな必要品を与えてねぎらう風習があったからや、と。

「かっての行基や空也などの聖や、巡礼という聖なる行為の実践者に『布施』を捧げて仏恩を受けようとした。

それらを『作善』『報謝』『喜捨』『勧進』『善根』ともいったが、みな同じ意味である。

江戸時代に入って、一般の人々の間にまで巡礼が行われるようになり、『接待』とよばれる風習が定着した。

『布施』や『作善』などと本来的な意味は変わらないが、世俗の身でも真剣な苦渋にみちた姿に打たれて、彼らに深い共感と同情が加わり、『接待』という形になっていったものであろう。

金品を与えるという接待の風習も、やはり西国巡礼から始まったが、元禄期ごろから、西国霊場では巡礼者への接待は大幅に減少していったという。」

「先進地である西国霊場あたりは、交通施設は充実するし、商工業も発達し、しだいに物見遊山(ゆさん)の客が多くなってきたのである。沿道には旅籠(はたご)、茶屋、駕籠(かご)屋、はては遊女屋まで現れるまでになり、巡礼者自身も遊楽気分半分で求道心が稀薄になったため、世人の同情・共感が得られなくなってしまったからである。」

ところが四国遍路は違ごうとった。物見遊山の雰囲気は初めからなかったげなな。

爺のこんまい時分、ようけ遍路が歩いとったな。

ほんまの信心のお遍路さんから、どなん見たって本物の乞食やったり、怪しげな行者やったり、デコ(人形)回しの門付け芸人もおったで。

あれは戦後の昭和20年代やったな。

そんな時分のことやけんど、隣町に住んどった人の話に、毎年ご先祖の命日になると親御さんから「お接待」のためにお遍路さんを捜してくるよう指示されたんやと。

村中を走り回って、それらしい人影をやっと見付けたら「泊まっていっていた(下さい)。どうぞ、お接待させていた。」

そなんゆうて袖を引っ張ったらしい。驚く遍路を連れて帰って、晩ご飯からお風呂の接待までするんが、その家の仕来りやったらしい。なんや、夢みたいな話しでがなぁ。

これが四国の「お接待」のひとつや。

ほんだら、また山本先生の本から読んでみるで。

「四国遍路はすべて忍耐の連続である。寺数も西国の三倍近くあり、日数も三倍以上かかる。健康状態を最後まで維持することはきわめてむずかしく、遍路する日数が増えれば、それだけ病者、行き倒れも多くなる。それ故、遍路者を信仰心厚い求道者として遇する社会の同情も消えることはなかった。接待は江戸期にかぎらず、明治・大正・昭和とつづき、それは四国霊場特有の一つの風習となった。」
「また接待が積極的に行われたもう一つの大きな理由は、信仰の対象が如来や菩薩とちがい、弘法大師という人物がこの世にたしかに実在した、われわれと同じ人間であったという親近感から、遍路への施しが大師への供養・報謝と同義だという感覚が育まれたからである」

とはゆうても、この接待の費用も大変で、ゆとりのあるゲンシャ(分限者・金持ち)か日銭がはいる商家でなかったら、ようけはでけなんだ。

こなんな例もあるげなで。

「土佐安芸郡馬路村は集落によって、唐黍(とうきび)、大豆、煎り米、餅など一年間で一軒あたり平均一・五合から三合。同郡川北村では約一升と、貧しい村、豊かな村それぞれの事情に合わせて接待量を取りきめている。もちろん強制的でなく、貧者は負担しておらず、富者が多く負担する。富者の中には辺路宿を無料で提供する者もある。」

この接待は、天保7年の全国的な大飢饉のときでも、四国では普通に行われとったんやと。

それにこれは特殊やけんど、四国の外の土地からの接待もあったらしいで。

紀州接待講、有田接待講、和泉接待講ゆうんが有名げなな。

このうち紀州接待講が一番有名で、高野山麓の講で毎年春ごろ阿波の日和佐・薬王寺まで船を3隻満杯にして乗り込んで来たんやと。

次は有田接待講で、名産のみかんや米を阿波の鳴門へ船で送り込んで来たげな。それがだんだん派手になって、明治になったら船20隻までになったそうな。

和泉接待講ゆうんは、大坂の泉州の講で阿波の小松島を接待場所にしとったげな。

30人〜50人の世話人がおったゆうんやけん、凄い数やな。ほかにも大坂、播磨、備前、備中、備後などの国も接待講があったゆうて、山本先生は書いとられる。

ここで不思議なことが書かれとる。

この熱心な接待講のどの土地も、貧しい農民で一揆や打ち壊しをしとる。

「その貧しい農民たちが遍路に接待を始めたのである。自分たちも食うや食わずであるのに、米一合、大豆一合と、だれの命令でもなく、自発的に始めたのである。高野山領の紀州接待講は文政二年(1819)から始まった。うちつづく凶年で文政六年ついに一揆が起こった。凶年の最中、一方で一揆を起こしながら、一方では接待講を始め、食物・品物を山積みした接待船が毎年欠かさず紀ノ川を下っていったのである。」

高野山領の農民は、自分たちの領主や豪華な法衣をまとった高僧を信じず、潮たれて山風に打たれて歩きつづける遍路の姿に、弘法大師を見、接待するわが心の中に、弘法大師の心を感じとっていたのだ、と書いとられる。

ほな、お接待の話はこれで終わるで。

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