塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の三十五 「四国に溢れた乞食遍路、偽遍路」

この前は、たった一人の病気のおなごし(女性)をみんなして、阿波の国から島根の国まで送り返した、涙が出るような優しいお話をしたでな。その時期も歴史に名高い天明の飢饉のさなかやゆうけん、驚くでがな。

ほなんしたらどうな、その優しさとは真反対のことが山本先生の本に詳しぃに書かれとるで。どなんなっとんな、と言いたいけんど、どっちゃもほんまのことや。これがこの世の理(コトワリ)ゆうもんやろな。

 こんども山本先生の「四国遍路の民衆史」の文章からですわ。

「四国はお接待があり、遍路をいたわり、病気になれば手厚く介抱してくれるーーとなると、遍路でない貧しい、家を持たない人、乞食同然の者までぞくぞくと四国にやってくる。」ほんで「西国三十三か寺は天明・天保の飢饉時に巡礼の数が大幅に減ってしまい、逆に四国八十八寺の遍路数が今までにないくらい増加した」んやと。

 これにはそれまで畿内の遍路を歓迎しとった阿波藩でも、なんぼなんでも乞食遍路、偽遍路がこなんようけに増えたら堪らんゆうて、地元の大庄屋が郡役所へ取り締まりを強化するよう願い出たらしい。

 大庄屋の言い分は、なんでも土佐の国境では路銀のない遍路を追い返すらしい、ほやけん阿波の国に怪しげな遍路が徘徊しだしたし、ついに強盗まで始めた。我が藩でもニセの遍路は厳しぃに追い返して欲しい、ゆう内容や。ほしたらそのことを聴いた讃岐の側でも黙っとられん。ここでも締め出しを厳しぃにした。

 ほんで効果があったかゆうたら、それがほとんどなかったげなな。

 その訳は、「他国からの乞食遍路を入れないようにしても、自国からも乞食遍路が発生していく。とくに災害に会うとそれが顕著になる。安政五年八月、伊予国今治・西条・大洲地方に大地震があり、各城下の人家は多数破壊された。」

 このためようけの百姓が飢えて乞食になって、あっちゃこっちゃ遍路姿で歩いとる。お上ではこれを止められんから、村で見かけたら通告せぇゆうて触れを出したらしい。

 昔から四国で一番遍路に厳しかったんは、土佐や。そんだけ貧しかったんや。土地の九割以上が山間部で林業以外に産物がないし、魚を獲ったって買うてくれる市場がないけん栄えんわな。「土佐は霊場間に距離があり、とくに室戸・足摺岬までは道のりは長く、そこだけで四・五日、川留めのあるときはもっと日数はかかる。難所も多く、病気になっても自由に宿は借りられない。という遍路にとって土佐は恐ろしい国になった。遍路たちは口ぐちにこぼし合った。『土佐は鬼国、宿がない』と。」

 天保の大飢饉は天保四年(1833)から深刻になり、土佐では触れを出したんやと。往来手形のないもん、脇道に入ったもん、日限が切れたもん等、みんな東西の入り口から追い払え、ほんで乞食遍路らしいんを見かけたら捕まえろ。ほなゆうけんど、肝心の土佐の領民が乞食みたいな格好やけん、役人もどっちゃが乞食遍路かその見分けもつかなんだそうな。笑うに笑えん哀れな話しでが。

 天保七年になってとうとう、「土佐ではかってないほど遍路、偽遍路、乞食遍路がおびただしいものになり、藩当局は東西二ヶ所の番所に『取扱心得方』の役人をおいた。遍路の荷物で本物か偽物かを区別した。一、往来手形 二、路銀相当(巡拝に必要な旅費の額) 三、六十六部の者ならば三つの道具(数珠・経文・杖) これらを所持していない者は入国させない」こなん決まりにした。

「それでも防げなかった。にせ者がどんどん入る。中には世帯道具まで所持して地下人(下級領民)をおどす荒々しいのもいた。医師のまねごと、占師めいた者の領民の悩みに乗じて金銭を搾取する者。はては強盗する者。このほか目立ってふえてきたものに『病症顕然にて歩行確かに不相調者』がいた。土佐へのライ病者の出現である。」

 ここで一言断っとくけんど、ライ病ゆうんは伝染病やけんど、健康な大人には絶対移らんもんやで。21世紀のいまでもライの病原菌を人工培養でけたら、ノーベル賞が貰えるゆうくらいや。ほれくらい弱い菌なんや。これが世界中でもまだ撲滅できとらん。なんでか。それは貧困や。貧困のための栄養失調が大敵なんや。栄養不足で抵抗力のない子供が、一番危ない。それで十年以上も潜伏期間があるけん、発病の原因は判らんでな。いたわしいこっちゃな。

 閑話休題(話を元に戻すこと)

 ここでビックリするようなことが、書かれとるで。四国へ遍路に逃れて来るんは、飢饉のためだけやない。江戸も中期を過ぎた頃からいろせ(いろん)な産業が過剰生産気味になってきて、関西では人手が余りだしたんやと。それまで江戸ゆうたら未開の地で、むさ苦しい国、むさい国やけん武蔵の国と呼ばれたくらいで、あんまし産業技術が進んで無うて上方の商品を下りもんゆうて大事にしとった。その江戸への下りもんが、向こうでも自前につくる技術がでけて、上方の品もんが重宝されんようになった。ほしたら近畿周辺の失業者がようけ出てきたらしい。

「失業した彼らの行きつく先は、けっきょく四国遍路であった。町や村でも『あゝ、あの人たち、いずれ四国へ行くのだろう』と暗黙のうちにわかっており」同情されたそうな。

 ここんところの話を山本先生は、ほんまに丁寧に書いとられるけん、歴史の勉強ついでや、こんどもっと詳しぃに書くけんな。

塩爺の讃岐遍路譚  其の三十六 「あてどのない遍路旅」を読む!!