塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の五 続・巡礼の話・本地垂迹(ホンジスイジャク)」

ほんまに、話しがあっちゃこっちゃして、すまんな。かんにんやで。

ほな、続きを行くでな。

熊野は古うから3山言うて、本宮、新宮、ほいで那智宮の3つがあるんは知っとるな? いつごろでけた(出来た)か聞かれても、爺にはよう分からん。

はっきりしとんは、この辺りは古事記、日本書紀の中の神話の世界に関係が深こうて、イザナミノミコトの墓まであるそうなで。

これは弥生人が渡来してくる前から、古い日本人が住んどった名残りや。

神話は渡来の大和の支配者が、自分たちを正当化する為に創ったもんやわな。

神社も古い神さんの上に、新しい神さんの名前が被せられて、おまけに人間みたいに位まで付けられとる。

例えば平安時代(859年)の神格付け(日本三代実録)のとき、丹生都比売(ニブツヒメ)神は従四位下とか、熊野速玉(ハヤタマ)神は従五位上とかみたいにな。神さんに位を付けるゆうんは、失礼な話しやわのう。もっと酷(ヒド)いのんは、この熊野本宮は明治まで、熊野川の中洲にしか建てられなんだんや。

大水が出たら流されるの分かっとんのにな。ほんで何遍も流されて、明治22年になって堪りかねた氏子が願い出て、やっと今の山の上へ建てることが許されたそうな。これを見ても、神さんを支配しとったもんがおったことが、よう分かるわな。

ああ、こらまた、えらい話しがそれたのう。ご免で。

日本の国を支配するのに、仏教を利用する考えが奈良時代に広まった。国家仏教の誕生や。

全国に寺院を建てて、貴族の力を見せつけようとしたんや。

比叡山や高野山に真言密教の道場もでけた。修験道は、仏教と古い神道を混ぜたように発展してきた。ある本には、山岳仏教は平安時代の天台宗と真言宗による山岳修行である、ゆうて書かれとるで。

それでも仏さんだけでは、なかなか大衆の心まで届かなんだ。

ほいで賢い学僧が考え出したんが、何べんもゆう「本地垂迹」の教えや。

このええ例が、熊野の本宮・家都美御子(カツミミコ)神はほんまは阿弥陀如来の仮の名前、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美 (ムスビ)神は千手(センジュ)観音と言う風に、本地が仏で仮の垂迹(スイジャク)が神さんやゆうて、名前を2重にしてしもた。

ついでやけんど、その神さんが目に見える姿を現したんは権現さんと言うそうや。

人間でも神さんになったら、それからは権現の名が付くらしい。

ある文章を見ると「阿弥陀如来を本地とした家都美御子大神を主神とする本宮は、阿弥陀の極楽浄土とみなされ、その社殿は『証誠殿(ショウジョウデン=念仏者の極楽往生を証明する社殿の意)』と呼ばれ、そこに参詣すれば浄土往生が確実になるとされ、平安後期以降、浄土教の聖地として栄えた」そうじゃ。この意味、分かるでか? 

・・見事な乗っ取りやな。

こんな日本人やから、キリスト教がきても平気で受け入れて、信者でもないのにクリスマスを祝って、数日後の元日はお寺や神社をハシゴして廻りよる。

江戸時代、宣教師がバチカン本部へ、この国だけは宣教でけんゆうて敗北の報告をしたそうや。

なんぼイエスの教えを説いても、にこにこ笑って頷いたお年寄りが、家へ帰ると相変わらず仏壇や神棚を拝んどる。1神教では、考えられんことやわな。

あら、こんな時間や。続きは、またな。
塩爺の讃岐遍路譚 其の六 「巡礼の話・浄土信仰」を読む