塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の六 「巡礼の話・浄土信仰」

久し振りですな。元気でおいでたんな。

こないだは日本の国の信仰が、神さんから仏さんに変わっていった話しをしましたわな。覚えとるでか?

本地垂迹のこと。

例えば「南無八幡大菩薩」いう言葉があるわな。この南無は梵語で、後に続く仏さんへの敬礼を意味しとるそうや。そやから大菩薩だけならええけんど、八幡さんいう神さんが入っとる。

こないして、もう完全に仏さんに取り込まれてますわな。話しがややこしぃて、すんませんな。話しが長引いとるけんど、これを言うとかんことには、四国遍路の話がでけん。まだまだ話は脱線するけんど、気ぃ長ごう付きおうてな。ほな今日は、その続きを行くでか。

仏さんは何にでも姿を変えとる、そんな理屈で神さんの領域にまで滑り込んだんや。ここへ真言密教が加わった。これも山岳信仰と仏教の混じった教えが多いから、ますます神さんと仏さんの区別がつかんようになった。

空海はんの戦略は、見事やったわな。国家のお墨付きを貰ろうて、加持祈祷、民間信仰、なんでも取り入れて威光を放つことに成功したんや。比叡山3千坊、高野山は1千坊ゆうて、お山は僧侶で溢れとったらしいけど、民衆にはどっか高嶺の花のような具合やった。エリートのための仏教や。

そやけど、世の中は戦や争いごとの多い世になって、京の都は飢えた行き倒れと病人で溢れかえるようになった。

そんな平安時代の中頃、空也というお坊さんが生まれた。この人が学問ばかりの仏教教団から飛び出し、町へ出て飢えや病に苦しむ民衆を救うため、念仏を勧め、そのために念仏踊りを始めたそうな。お陰でそれはそれは貧しい人びとに慕われ、仕舞いには盗賊にまで尊敬されて、「市聖(イチノヒジリ)」と呼ばれたそうな。それが民衆へ仏教の広まる最初やと言われとるで。

やがて平安時代後期、貴族はしだいに権力を失って、いつ地頭などの武力集団に打ち破られるか分からず不安に怯え、そのうえ都の人口密度が高くなって流行り病による突然死も多くなったためか、この世の無常観を深めていったらしい。大衆のことなんぞそっちのけで、頼れるのは極楽浄土のあの世か、この世の権現さんの加護だけとなり、上皇たちの異常な熊野御幸(ギョウコウ)が始まったんやけど、そのことはもう話したわな。

もう、神さんでも仏さんでも何でもええ、助けてくれー、そないうて熊野詣でが続いた。

鎌倉時代になって、時宗の開祖一遍上人が「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」とゆうて、お札を配り念仏踊りで日本全国を熱狂の渦に巻き込んだそうじゃ。室町時代には、時宗の念仏聖たちが熊野の勧請権を独占し、それまで貴族が中心の熊野詣でを庶民の側へ広め、後の老若男女の「蟻の熊野詣」と言われる現象まで生み出したそうじゃ。

死ぬ想いをして、それでも極楽浄土を垣間見ることが出来るかも知れん、そんな空想に駆られた大衆は、もう止めることはでけん。これが日本の巡礼の始まりやな。

高野聖も本山の財政を助ける為に、勧請の旅を全国へ広めていたけんど、これが四国遍路に結び付くのは、もっと後のことや。

あら、もうこんな時間、いかんいかん、今日はこれでな。

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