塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の七 「巡礼の話・これまでのおさらい」

さぁ、今日も元気で行くでか。

これまで、信仰の始まりから移り変わりを、ごくごく大雑把に見てきましたわな。

ほんでもまだ、よう分からんでか?

なんせ喋っとるもんが素人やけん、ごめんな。ほなら、おさらいするのんにええ文章があったんで、紹介させてもらいますわ。本の名は「日本の原卿・熊野」(新潮社)ゆうて、梅原猛先生の書いたもんですわ。

「日本書紀によれば、仏教は欽明13年(552)に百済から伝えられたが、仏教渡来後二百年、天平勝宝4年(752)には大仏開眼が行われ、この二百年の間に仏教が完全に日本に定着したことを示した。

この奈良仏教は都市仏教であったけれど、一方山林に住んで仏教を広める者もあった。(略)仏教を朝廷の力によって取り締まろうとした律令政府は、そういう政府の統制外にある山林に住んで仏教を広める僧を禁止しようとするが、再三にわたる政府の禁止命令にかかわらず、そういう僧は後を絶たなかったと思われる。

行基もそういう僧であり、しきりに布教禁止の命が出されるが、行基の布教活動はとどめようもなく、ついに律令政府は大仏建立のときに、この行基の名声を利用しようとするのである。

奈良仏教は、確かに主として貴族を布教の対象とした都市仏教に過ぎなかったが、しかしそういう山岳による民間仏教者のエネルギーを己の中に吸収するたくましさを持っていたのである。」こうやって、仏教は一般大衆に溶け込んでいったんやな。

「最澄、空海による天台・真言密教の開宗は仏教界に新しい風を入れるものであった。

彼らは、それぞれ深山と言うべき比叡山・高野山を根拠地とし、土着の神に対して融和的態度をとった。最澄は日吉神社を、空海は丹生神社をそれぞれ土着の神として篤くあがめた。

このような思想の帰結として、神と仏とを共存させる信仰が起こった。

それは結局、本地垂迹(ホンジスイジャク)説として現れる。

つまり、インドの仏たちが姿を変えて日本に現れて、いろいろな神々になったというのである。

こういう本地垂迹説によって仏たちと神々の共存が可能になり、それとともに日本独自の修験道というものが現れる。

修験道というまさに仏教が土着の神道と混合して出来あがり、山を聖地として、回峰、すなわち山めぐりを主な宗教的な行事とする宗教である。」

さすがに梅原先生の文章は、よう分かりますな。

ついでに、長ごうなるけんど、浄土宗の起こりも、詳しいので引用させてもらいますな。

浄土教は本場インドでも中国でも廃れたのに、なんでか日本では10世紀に盛んになり「そして11世紀になって源信、12世紀になって法然・親鸞という思想家を生み出して、浄土教が日本仏教の中心になったのは一体どういうわけであったのだろうか。

私は、日本人にとって山はもともと死者の住む場所であり、山を根拠とした仏教はそういう死者の霊と交わらずにはいられなくなり、古くから日本人の信仰の中心であるあの世信仰が、仏教のあの世信仰、すなわち浄土信仰と結びついたからではないかと思う。」
 
熊野が別名で死の国と言われるのも、これで理解できますな。

熊野に浄土がある、そんな幻想でわれもわれもと、人の波が「蟻」のように押し寄せたんやな。

それでもって、信仰は偉いさんの手から、民衆の手に渡った。

今日も時間が来たな。ほんなら、いぬでな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の八 「修験道こそ、巡礼の元祖?」を読む