塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の八 「修験道こそ、巡礼の元祖?」

おいでまい。

どの本読んでも修験道が巡礼の始まりやゆうとるけん、今日は修験道をみるでな。

ワシもあんまりは知らん世界や。

こんまい(小さい)時、夜祭りで火を焚いた中で山伏のあの呪文とか気合いがおとろし(怖ろし)かったんだけは、よう覚えとる。

修験道は、明治5年の神仏分離令(廃仏毀釈・ハイブツキジャク)によって禁じられたそうや。そやからあんまり知られんようになってしもた。ほやけんど今でも寺の護摩炊きには、山伏姿の行者がどこからか現れて不思議な祈祷を見せてくれるわな。

白衣(ハクエ)、白指貫、笈(オイ)、輪袈裟、金剛杖、どれ取っても四国お遍路さんの装束そのものやろ。

昔から修験の山は霊が天へ昇る場所といわれて、修験者は死者の遺骨や遺髪を預かって山中に納めに行ったそうな。

高野山の奥にもようけ(沢山)墓があるけんど、昔の高野聖による「骨上(コツノボ)せ」の名残りらしい。
 
そもそも修験道いうもんは、日本古来の山岳信仰に仏教、神道、道教などが重なって、山の霊力を受けもって山中で極限までの練行、苦行を行うことで、行者として呪力を高め、人びとの現世利益(ゲンゼリヤク)の願いをかなえるというものやった。

それがどんなもんか、ここに役小角(エンノオヅヌ)の話しがあるんで紹介するでな。

伝説では634年に奈良県に生まれるが、12歳で葛城山に籠もり、木の芽を食べ、滝に打たれて修行をしたそうや。寺には入らんから、優婆塞(ウバソク)として10年、20年と修行をつんで、ついに法力を感得して修験道を確立したそうや。空を飛んだり、好きなもんを取り出したり、病気を治したり、そらもう、もの凄かったらしいで。

中国でなら仙人や。

ここでもう一遍、梅原猛先生の文章をお借りしますわ。

前回と同じ「日本の原郷・熊野」から。「以前私は仏教を研究していた頃、修験道という何の理論もないような、神道とも仏教とも区別のつかない奇妙なものに当惑した。

しかし今は違う。仏教とともに神道を研究して日本の宗教が全体として少し見えてくると、この修験道というものこそ真に日本的宗教であり、その謎を解くことによって、日本仏教の謎も、あるいは日本神道の謎も解けるのではないかと思うようになった。」とありますわ。

道なき道を分け登り、沢を降り、密林をかい潜り、山野に伏して、ひたすら極限の行脚をつづけるんは、古代の巡礼姿そのものやわな。

ある本によると「役(エンノ)行者は、『今昔物語』などでは葛城山にまつられる国津神である一言主(ヒトコトヌシ)を使役するなど、多くの不可思議な逸話を残すため、宗教家ではなく呪術者や妖術使いのようにもいわれる」とあるけんど、これは、後の空海さんそのものかも知れんで。

こないにして、神道、仏教、修験道が重なりもって、紀伊半島に道場みたいな宗教の世界が広がったんや。

補堕落(フダラク)ゆうたら、海の向こうに観音浄土の世界があるゆう信仰やったが、そこへの船出の場所がこれまた熊野になった。

これは到達不可能の船出やったけんど、浄土信仰は死を美化する考えやから止めようがないわな。

この世の苦しみから逃れる巡礼、その前に観音信仰がある。それを次に調べるでか?

塩爺の讃岐遍路譚 其の九 「観音信仰」を読む