塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の九 「観音信仰」

ようお出でたな。だいぶ歩いたみたいやけんど、ほんの入り口や。

ほいでも、時代は中世に入ってきたやろか。

今日は観音さんについてやけんど、今でも観音霊場巡りは全国にあって、ようけの人がお参りしとるわのう。

この観音さんはべっぴんさんかと思うたら、おとろしい千手(センジュ)や馬頭観音もあるな。

ほんなら観音さんは男か女かゆうたら、どっちゃでもない。

龍源寺住職・松原哲明さんの本を読むと、初めは釈尊から「善男子」と呼ばれて男やったけんど、途中から女の呼び名も加わって、中性化したらしいで。

そもそも、観音さんの始まりは紀元前1世紀ころの天竺、いまのインドやと言われとる。

中国から日本へ伝わったんは飛鳥時代やそうや。

もともとは聖(正ショウ)観音だけやったけんど、ヒンズー教の影響を受けて多面多譬(タメンタヒ)つまりいろんな顔や手を持った観音さんになったそうや。

救いを求める人の心のありようで、姿が変わる。そやからようけ名前を持っとるで。

ついでやが、観音さんの呼び名に「観世音菩薩」と「観自在菩薩」とがあるけんど、これは同じもんで、梵語から漢字に訳すときの旧訳と新訳の違いだけやそうな。

どっちゃでもええ言われると、迷うな。

「観音経」には、観音さんがみんなを救済するために33の方便身をとったゆうて、三十三観音の記述があるんやと。

救いを求める人の願いに応えて姿を変える、偉い菩薩さんや。

これが全国の33ヶ所霊場の元になっとるな。

また六観音や七観音ゆうんもあるけんど、六観音とは、聖(しょう)観音・十一面観音・如意輪(にょいりん)観音・馬頭(ばとう)観音・准胝(じゅんてい)観音・千手観音の6つで、これに不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をくわえて七観音になるそうや。


初めは現世利益(ゲンゼリヤク)ゆうてこの世でのご利益が中心やったけんど、平安中期より鎌倉初期にかけて、浄土信仰が興ってくるとあの世の極楽浄土へ案内してくれるありがたい菩薩さんになった。

これが熊野の浄土信仰に重なって、観音聖地の考えになるんやな。

ほんで海の向こうに観音浄土、補陀洛(フダラク)世界があるゆうて、ようけのお坊さんが死ぬの分かっとるのに舟の旅に出たんや。

補陀洛渡海やそうな。

熊野那智の青岸渡寺(セイガントジ)が有名やけんど、四国遍路もこの補陀洛渡海の出発地点を捜しての旅やったかも知れんゆう学者はんも居てましたで。

こなんして10世紀末以降、京都や畿内の観音像を安置する寺院への貴族や民衆の参詣が流行して、ここから、観音霊場の巡礼が広まったげな。

西国三十三所の開設は、8世紀の奈良時代に長谷寺の徳道上人で、10世紀の花山(カザン)上皇が再興したとも言われとるけんど、確実なんは、12世紀の園城寺(オンジョウジ)僧覚忠(カクチュウ)、になるそうな。

13世紀には坂東三十三所、15世紀には、秩父三十三(後に三十四)所が成立したそうな。今では、全国各地に100に余る三十三所が形成されとるそうなで。

ほんで、本に書いとんのを読むと、観音霊場を廻るのは巡礼ゆうらしい、お四国さんを廻るんは遍路というんやと。

讃岐でわしらのこんまい時分(ジブン)は遍路のことをヘンドゆうとったが、乞食のこともヘンドゆうし、子供には区別がつかなんだんを思い出したで。

あら、もうこんな時間や。続きはまたな。ほしたら、いぬでな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の十 「熊野詣と四国遍路」を読む