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塩爺の『讃岐遍路譚』
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塩爺の『讃岐遍路譚』Vol.8〜11


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.8 「修験道こそ、巡礼の元祖?」

おいでまい。どの本読んでも修験道が巡礼の始まりやゆうとるけん、今日は修験道をみるでな。ワシもあんまりは知らん世界や。こんまい(小さい)時、夜祭りで火を焚いた中で山伏のあの呪文とか気合いがおとろし(怖ろし)かったんだけは、よう覚えとる。
 
修験道は、明治5年の神仏分離令(廃仏毀釈・ハイブツキジャク)によって禁じられたそうや。そやからあんまり知られんようになってしもた。ほやけんど今でも寺の護摩炊きには、山伏姿の行者がどこからか現れて不思議な祈祷を見せてくれるわな。白衣(ハクエ)、白指貫、笈(オイ)、輪袈裟、金剛杖、どれ取っても四国お遍路さんの装束そのものやろ。


昔から修験の山は霊が天へ昇る場所といわれて、修験者は死者の遺骨や遺髪を預かって山中に納めに行ったそうな。高野山の奥にもようけ(沢山)墓があるけんど、昔の高野聖による「骨上(コツノボ)せ」の名残りらしい。
 
そもそも修験道いうもんは、日本古来の山岳信仰に仏教、神道、道教などが重なって、山の霊力を受けもって山中で極限までの練行、苦行を行うことで、行者として呪力を高め、人びとの現世利益(ゲンゼリヤク)の願いをかなえるというものやった。それがどんなもんか、ここに役小角(エンノオヅヌ)の話しがあるんで紹介するでな。

伝説では634年に奈良県に生まれるが、12歳で葛城山に籠もり、木の芽を食べ、滝に打たれて修行をしたそうや。寺には入らんから、優婆塞(ウバソク)として10年、20年と修行をつんで、ついに法力を感得して修験道を確立したそうや。空を飛んだり、好きなもんを取り出したり、病気を治したり、そらもう、もの凄かったらしいで。中国でなら仙人や。

ここでもう一遍、梅原猛先生の文章をお借りしますわ。前回と同じ「日本の原郷・熊野」から。「以前私は仏教を研究していた頃、修験道という何の理論もないような、神道とも仏教とも区別のつかない奇妙なものに当惑した。しかし今は違う。仏教とともに神道を研究して日本の宗教が全体として少し見えてくると、この修験道というものこそ真に日本的宗教であり、その謎を解くことによって、日本仏教の謎も、あるいは日本神道の謎も解けるのではないかと思うようになった。」とありますわ。
 
道なき道を分け登り、沢を降り、密林をかい潜り、山野に伏して、ひたすら極限の行脚をつづけるんは、古代の巡礼姿そのものやわな。ある本によると「役(エンノ)行者は、『今昔物語』などでは葛城山にまつられる国津神である一言主(ヒトコトヌシ)を使役するなど、多くの不可思議な逸話を残すため、宗教家ではなく呪術者や妖術使いのようにもいわれる」とあるけんど、これは、後の空海さんそのものかも知れんで。
 
こないにして、神道、仏教、修験道が重なりもって、紀伊半島に道場みたいな宗教の世界が広がったんや。補堕落(フダラク)ゆうたら、海の向こうに観音浄土の世界があるゆう信仰やったが、そこへの船出の場所がこれまた熊野になった。これは到達不可能の船出やったけんど、浄土信仰は死を美化する考えやから止めようがないわな。

この世の苦しみから逃れる巡礼、その前に観音信仰がある。それを次に調べるでか?


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.9 「観音信仰」

ようお出でたな。だいぶ歩いたみたいやけんど、ほんの入り口や。

 ほいでも、時代は中世に入ってきたやろか。今日は観音さんについてやけんど、今でも観音霊場巡りは全国にあって、ようけの人がお参りしとるわのう。この観音さんはべっぴんさんかと思うたら、おとろしい千手(センジュ)や馬頭観音もあるな。ほんなら観音さんは男か女かゆうたら、どっちゃでもない。龍源寺住職・松原哲明さんの本を読むと、初めは釈尊から「善男子」と呼ばれて男やったけんど、途中から女の呼び名も加わって、中性化したらしいで。

 そもそも、観音さんの始まりは紀元前1世紀ころの天竺、いまのインドやと言われとる。中国から日本へ伝わったんは飛鳥時代やそうや。もともとは聖(正ショウ)観音だけやったけんど、ヒンズー教の影響を受けて多面多譬(タメンタヒ)つまりいろんな顔や手を持った観音さんになったそうや。救いを求める人の心のありようで、姿が変わる。そやからようけ名前を持っとるで。ついでやが、観音さんの呼び名に「観世音菩薩」と「観自在菩薩」とがあるけんど、これは同じもんで、梵語から漢字に訳すときの旧訳と新訳の違いだけやそうな。

どっちゃでもええ言われると、迷うな。

 「観音経」には、観音さんがみんなを救済するために33の方便身をとったゆうて、三十三観音の記述があるんやと。救いを求める人の願いに応えて姿を変える、偉い菩薩さんや。これが全国の33ヶ所霊場の元になっとるな。また六観音や七観音ゆうんもあるけんど、六観音とは、聖(しょう)観音・十一面観音・如意輪(にょいりん)観音・馬頭(ばとう)観音・准胝(じゅんてい)観音・千手観音の6つで、これに不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をくわえて七観音になるそうや。

 初めは現世利益(ゲンゼリヤク)ゆうてこの世でのご利益が中心やったけんど、平安中期より鎌倉初期にかけて、浄土信仰が興ってくるとあの世の極楽浄土へ案内してくれるありがたい菩薩さんになった。これが熊野の浄土信仰に重なって、観音聖地の考えになるんやな。ほんで海の向こうに観音浄土、補陀洛(フダラク)世界があるゆうて、ようけのお坊さんが死ぬの分かっとるのに舟の旅に出たんや。補陀洛渡海やそうな。熊野那智の青岸渡寺(セイガントジ)が有名やけんど、四国遍路もこの補陀洛渡海の出発地点を捜しての旅やったかも知れんゆう学者はんも居てましたで。

 こなんして10世紀末以降、京都や畿内の観音像を安置する寺院への貴族や民衆の参詣が流行して、ここから、観音霊場の巡礼が広まったげな。西国三十三所の開設は、8世紀の奈良時代に長谷寺の徳道上人で、10世紀の花山(カザン)上皇が再興したとも言われとるけんど、確実なんは、12世紀の園城寺(オンジョウジ)僧覚忠(カクチュウ)、になるそうな。

13世紀には坂東三十三所、15世紀には、秩父三十三(後に三十四)所が成立したそうな。今では、全国各地に100に余る三十三所が形成されとるそうなで。

 ほんで、本に書いとんのを読むと、観音霊場を廻るのは巡礼ゆうらしい、お四国さんを廻るんは遍路というんやと。讃岐でわしらのこんまい時分(ジブン)は遍路のことをヘンドゆうとったが、乞食のこともヘンドゆうし、子供には区別がつかなんだんを思い出したで。

 あら、もうこんな時間や。続きはまたな。ほしたら、いぬでな。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.10 「熊野詣と四国遍路」

またおいでてくれたんな。ほな、ぼちぼち行くでか。

ここに「み熊野ねっと」ゆうホームページがあるんやけんど、これが詳しいに熊野参詣の作法を書いてくれとります。あんまり詳しすぎるんで、ちょびっと(少し)簡単に書き直してみるで。これ見たら、四国のお遍路が熊野から来とんのがよう判るでな。

浄土信仰が盛んになった平安時代の末、熊野本宮は西方極楽浄土やとか、新宮は東方浄瑠璃浄土やとか、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地やと言われて、熊野全体が浄土の地とみなされるようになったそうな。そんで中世、人々は(とゆうても、そこそこ身分の高い人たちやろな)苦しい生活から逃れて、生きながら浄土に生まれ変わることを夢見て、苦しい熊野詣の道を歩いたらしい。ほな「み熊野ねっと」を読むで。

「熊野は辺境の山岳地帯にあるので道案内が必要とされ、その道案内を修験者がつとめました。この道案内人を先達(せんだつ)と呼びましたが、先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行いました。」とあるけんど、これは今のお四国遍路でもおんなじやな。

先達さんに連れられて、ようけ団体でお参りしとります。

「精進潔斎の生活は道中でも当然、続けなければなりません。また、先達の指導のもとに、祓(はらえ)や、海辺や川辺での垢離(こり。冷水を浴びて身心を清めること)、王子社での奉幣などの儀礼も行われました。」これは神道やわな。四国遍路では無いな。

「しかし、ただ歩いているだけでは浄土である熊野には入ることができません。熊野は浄土の地であるので、熊野(=浄土)に入るには、いったん死ななければならないのです(儀礼的な意味で)。」これは四国遍路もおんなじや。遍路も形式的な死出の旅なんや。

「発心門王子で、今まで使っていた杖を献納し、発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門が表わされた金剛杖を渡されたのは、これから道者が発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門をくぐり、成仏を遂げるのだということを現わしているのでしょう。」この思想がそのまんま、四国遍路の阿波を発心の道場、土佐を修行の道場、伊予を菩提の道場、讃岐を涅槃の道場とゆうようになったんやな。

「熊野詣とは、生きながらに、死んで浄土に生まれ変わって成仏し、そして、再び現世に帰っていくという構造そのものであったのです。」これも四国遍路の姿そのものやな。 熊野詣によう出てくるもんに、王子ゆうのがあるな。これは本宮の神さんの御子神つまり子供の意味らしい。ほいで、熊野には九十九王子というんがあるけんど、これもよう判らんけど昔から数の多いのは数字を重ねてゆうたらしい。そんで四国の八十八ヶ所も数の多さを意味して、熊野にひとつ遠慮して八十八にしたんやゆう人がある。大江戸の八百八町や浪花の八百八橋よりマシかいな。

熊野には大辺路(オオヘチ)とか中辺路とかゆう参詣道があるけんど、この辺路(ヘチ)はヘンロとも読めるわな、そんで四国の辺路(ヘチ)とゆうとったんから遍路になったんやゆう説もあるで。「我等が修行せし様は、忍辱袈裟(ニンニクケサ)をば肩にかけ、また笈(オイ)を負ひ、衣はいつとなく潮垂(シオタ)れて、四国の辺路(ヘチ)をぞ常に踏む(梁塵秘抄・リョウジンヒショウ)」ゆう歌が有名やな。

さぁ、次からはいよいよ四国へ話しを進めますわな。ほな、今日はこれでいぬでな。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.11 「四国遍路の興り」 

 あっちゃこっちゃへ寄り道したけんど、いよいよ四国遍路やで。巡礼や遍路では、お参りすることを打つゆうでな。あれは、昔は木の札を打ち付けて、札所を廻った名残やそうな。そんでも木の札と釘と金槌を持っての旅ゆうたら、重とうてえらい荷物やったやろな。それに食べるもんと煮炊きの鍋、ほかに夜具や着るもんも持たないかん、えらいこっちゃで。道も悪かった、とゆうよりろくに道も無かったみたいで、川には橋もなかったようや。そんな道中やから、それこそ、命がけやったんや。

 札を打つゆうたら、高いお堂の天井へ打つのはどなんしたか不思議やったけんど、それを書いた本があったで。本の名前は「四国遍路の民衆史」山本和加子著(新人物往来社)ゆうんやけんど、これは遍路の歴史に詳しい本でな、実はこの塩爺の話しもこの本がベースになっとんや。

ほんで札打ちのことやけんど、壁ならハシゴで上れるけんど、天井の真ん中はでけん。ほしたら10人くらいが輪になって肩を組む、その上に4、5人が乗って肩を組む、その上に3人、ほれから1人とサーカスみたいにして、ほんで打ったんやと。よう考えたな。

 さーて、四国遍路が熊野の修験者のお参りによう似とるゆうんは、前に書いたわのう。この理由で考えられるんは、奈良時代、山林修行の修験道が盛んになった時、吉野や熊野の山岳を廻り尽くしたもんが、もっともっと険しい修行の場を求めて全国へ散り、遠国といわれた四国の山へも行者として乗り込んで来たんや思う。四国ゆうたら讃岐以外は、狭い面積で平野部がほとんどの(無)うて、山から海に注ぐ川は垂直に近いとまで言われる急傾斜地や。平安時代でも、日本の3大流刑地ゆうたら佐渡島と八丈島、それに土佐の国や言われとったくらいや。四国を「死国」ゆう人もおるで。死ぬのが当たり前、それが昔の修験者の練行(レンギョウ)やったに違いない。

修験者が乗り込んで修行の道をつけた後、今度は禅宗や山林仏教の坊さんが、これまた全国の山奥深いところへ禅定を求めて籠もりに行っとるらしいで。それから後は、いろんな宗旨の坊さんや聖(ヒジリ)が全国を行脚して、信者と仏堂を増やしていったんやろな。

聖ゆうたらお堂に籠もって学問する坊さんやなしに、町中(ナカ)で人びとに教えを広めたり、お布施を集めてはお山へ持ち帰る、働き蟻みたいな身分の低い信仰者やった。なかにはニセの坊さんもようけおった。そやけんど、反対に空也(コウヤ)や一遍みたいな偉い人も聖や言われとるけん、いろんな聖があったんやな。特に高野聖は有名やし熱心で、その数も多かった。

 高野聖ゆうたら、空海の亡くなった後、朝廷や貴族の寄進で高野山が全盛期を迎えた頃、全国から僧や出家した武士が入山したけんど、高野山の壇上に属さず、周囲の山々の谷あいに住んだ、これが高野聖の始まりやと、「四国遍路の民衆史」の本に書いとる。その後も源平の争乱期に入ると、雑多な遁世者が入山して、高野山は「三百の学侶、二千余輩の衆徒」にまでふくれあがったんやと。それで高野聖は真言念仏と浄土信仰をもって何処へでも行き、念仏聖とも交流して金集めの勧進圏は全国に広まったそうな。もう真言密教にはこだわらんと、念仏中心になっていったそうや。いや、神さんでも余所の信仰でも何でも受け入れる、それが真言密教の本質やと、元高野山大学学長の松長有慶さんが書いとられるで。四国遍路に宗旨は関係ないと言われとるけんど、ここらあたりに本質があるようやわな。

高野聖の話になったら、空海さん、いやお大師さんを知らないかんでな。

次からは空海さんについて、いっしょに調べてみるで? おいでまいよ。

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