塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚  其の四十 遍路譚の道草「お伊勢参り」③ 神楽奉納と伊勢見物

よう、お出でましたな。お待ちしとりました。
 今日は「お伊勢参り」のお神楽奉納たらいうもんを、見てみようでな。お伊勢参りの名前はよう聞くけんど、その中身についてはどなたもあんまし知らんでな。この際や、ちょっと長ごうなるけんど、NHK出版から抜き書きさしてもろて、一緒に勉強しましょうでな。

「伊勢にやってきた目的は、豊作祈願に家内安全、商売繁盛、武運長久、病気平癒祈願などさまざまな現世利益を、直接神様にお願いすることでした。御師(オンシ)が神様と人との間に立って奏上してくれるのですが、その儀式は御師の神楽殿で行われました。」

「柱を錦で巻いて天井の四方から絹布を垂らし、注連(シメ)を張って紙で作った形代(カタシロ)などを飾ったものを天蓋(テンガイ)とし、榊・注連・幣(ヌサ)が置かれた神殿の奥には神鏡があり、前には湯釜が据えられます。神殿を取り囲むように素襖(スオウ=武士の礼装のひとつ)に烏帽子(エボシ)をつけた楽人たちがそれぞれ鼓や笛、笙(ショウ)を手にして座り、数人の舞手の老巫女と童女も控えています。奉納金の額により太々神楽(ダイダイカグラ)、太神楽、小神楽のランクがあり、それによって楽人たちの人数にも多少がありました。一行が着座すると楽人の謡(ウタイ)と巫女の舞がはじまり、幣を振って一同を祓う清めの儀式があり、次に御師が神座の前に進んで願文を読み上げます。その後、楽人の演奏と巫女の舞があり、舞と交互に数回の撒き銭がなされます。これが神楽です。撒き銭は神楽奉納者があらかじめ渡しておいた小銭を広間の四方八方にばら撒くもので、二分(一両の二分の一)くらいは使いました。」

 この儀式は正午頃からはじまり、午後4時までかかったそうです。
 仏教のお遍路さんや巡礼の旅と違ごうて、神さんの奉納は豪勢で賑やかやなぁ。村の仲間同士で積み立てた金で、一生に一度の夢見心地を味わえる、これは村へいんだら(帰ったら)、何倍にも尾ヒレが付いて土産話にされたはずや。「一生に一遍はお伊勢まいり」と言われたんが、よう分かるでな。

「神楽奉納が終わると神酒(ミキ)が振る舞われて祝宴となります。食事は前に記したように豪勢なもので、一同はすっかり満腹になり、そのうえ酒も飲んでいますから再びフカフカの布団に包まれてぐっすり眠ったことでしょう。」と書かれとります。

 この豪勢な料理の形式が、現在の日本旅館にそのまま引き継がれとるとゆうことを、知っとられますか? どなん山奥でも日本旅館では刺身や海の幸が盛られて、なんや申し訳ないけんど、逆にうんざりしたことがあるでな。これはみんな、このお伊勢参りの形式を残しとるそうで、そないゆうたら品数が多いわな。旅人を驚かす、精一杯のもてなしや。

 神楽奉納を見たついでや。「伊勢見物-おすすめ見所コース」というのが、NHK出版に書かれとります。これも一緒に見ようでな。

 「外宮の境内には神楽殿、多賀宮(タカノミヤ)、風宮(カゼノミヤ)、土宮(ツチノミヤ)などがあり、正殿の周囲を四十末社が取り囲んでいました。四十末社は近郷の土着の神々を祭ったもので、粗末な掛小屋に神名を書いた額と注連縄をかざり、鏡や御幣、神酒などを並べて説明していました。(末社は明治になって整理され、現在はありません)。参詣者たちはこうしたお宮の一つ一つに賽銭を十二文ずつあげていきます。」

 どうな、ここにも大和朝廷の新しい神さんが、日本古来の神さんを打ち従えた姿がありありと見えるでがだな。
 「外宮を出て岡本町へ。ここは櫛を売る店が多く、伊勢みやげでかっていく旅人が多かったところです。小田の橋を渡ると妙見町で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に登場する藤屋や、朝熊(アサマ)の万金丹の支店もここにありました。」

 ここから間(アイ)の山ゆう遊興街に入るんやけど、三味線や鼓弓を弾きもって唄うお杉・お玉の女芸人の小屋が何軒も並んどった。どの女もお杉・お玉で、固有名詞と違う。その女芸人に小銭を投げるんやけんど、うまいこと三味線の棹で避けよる。これが名物で『たわけ者 女太夫に やたら投げ』ゆう川柳まで出けとる。

 道の真ん中ではようけの比丘尼たちが、参詣者の袖をつかんで銭を乞うとったらしいけんど、こうなったらいかがわしい気配がするでな。ほれから少こうし行ったら古市で、妓楼(ギロウ)や旅籠屋、芝居小屋までが立ち並んで、ほれはもう凄げな賑わいや。精進落としたらゆうて、遊んで帰るもんが多かったげなな。
 
 この喧噪な間の山を下っていったら内宮や。五十鈴川に架かる宇治橋は長さ五十二間(約九十四㍍)、この橋の下の水中に網を持った男たちが待ち構えとったんやと。参詣者が小銭を投げたら、器用に網で受け取る。それが名物やったらしい。

 内宮の正殿にお参りし、摂社、末社に賽銭をあげてお参りしたけんど、その数は六十九社もあったげな。これやら舘町(タチマチ)ゆう民家の土産物屋は、みんな明治の中ごろに廃止された。ほんで、いまの静かな境内になったげなで。

 このほかに朝熊山(アサマヤマ)の金剛証寺や二見浦もあるけんど、このくらいにしとくでな。ほしたら、今度は江戸時代に、けた外れの数の参詣者が伊勢へ押し寄せた「お陰まいり」を書いて、このお伊勢まいりの話は終わります。

塩爺の讃岐遍路譚 其の四十一「お伊勢参り」④抜け参り・お陰参りをお楽しみに~