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塩爺の『讃岐遍路譚』
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塩爺の『讃岐遍路譚』 Vol.26〜


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.26 「四国霊場八十八ヶ寺を決めた真念さん」

澄禅さんの四国遍路の旅、どなんやったでか? ほんまに真面目な修験の旅やったでな。そんでも、江戸時代初めのこの時分ぐらいから世の中、旅行ブームが全国的に起こってきたげなな。世の中が安気になってきた証拠や。戦のない時代の到来や。そやけんど、百姓や町人がそないに仕事をほったらかして旅に出る訳にはいかなんだ。百姓には年貢を納める義務があって、土地に縛り付けられて土地を離れる許可はなかなか下りなんだ。ただ一つ、神や仏の信心のお参りだけには許可が下りたげな。それで全国お参りのブームが起きたんやと。そやけんど、旅に出るには「往来手形」ゆうんが要った。この往来手形や「捨て往来」のことは、爺も興味があるけんまたゆっくり書かしてもらうでな。

 さて、澄禅さんから40年くらい経って、真念たらゆう元聖(ヒジリ)らしいお坊さんが「四国邊路道指南(シコクヘンロミチシルベ)」とゆう本を出した。誰でもが四国へお参りでけるようにと書かれた、それはそれはようでけた道案内の資料やと。この資料集めのために真念さんは、大阪から四国へ20数回も来たげな。ほんでから出したんが、この順拝のガイドブックや。

 山本先生の言葉によると「真念が四国遍路を大衆向けにするために苦心したのは、第一に距離をもっと縮めること。(それまで愛媛の大三島にある大山祇神社や金比羅宮などの神社までが札所に入っていたのを除いたり、奥の院もなるべくお参りのコースからとり除いたりした。)道がなくて迂回する所は、道や橋をつけ、大河には渡し船をつけてもらう。澄禅のころは四百八十八里あったというが、これで道程は三百四里に縮まることになった。」

 ここで気になる澄禅さんの書いとられる道四百八十八里ゆうんが、どうも怪しげなで。澄禅さんは河も四百八十八瀬、坂四百八十八坂ゆうて表現しとられる。八十八ヶ所とおんなじ、数字の語呂合わせみたいやな。ほんでも、真念さんが道順を整理して、短こうにしたんはほんまやわな。ところが、これを勝手に道をこさえ(作っ)て、独善と売名行為でけしからんゆう評価をしとるお方もおるけん、世の中は複雑やで。

 ほんだら、この真念さんはどなんげなお方やったんか、ちょびっと見てみるでな。

 あれこれ資料を見たけんど、真念さんの生年月日はよう判らんのやと。大阪の出らしいことは確かや。元聖やゆうけん、正式な坊さんの位を持たん頭陀(ズダ)や抖(トソウ)の人みたいや。衣食住を持たん無学で極貧の風来坊ゆうて表現する人もおられるで。ところが、この真念さんは無茶苦茶お大師さんが好きでな、なにがあってもみんなにお参りして欲しい、そのためには遍路道をはっきりさせないかんゆうことから、苦労して四国八十八ヶ寺を決めてしもうたらしい。

 ここのところを山本先生は、清浄観中宣という僧の言葉として、「真念は頭陀の人で、粗末な麻の衣がやっと肩にのっている姿で、托鉢で得る糧もままならぬ身であった。ただ弘法大師につかい奉らんと深く誓い、身を忘れ、苦をもいとわず、善行することを生き甲斐とした。」と書いとられる。

 真念さんは大坂の寺島ゆう所に住んどったらしい。大阪港の突端にあるいろんな川の合流する河口地帯で、木場や造船の場所やったらしい。河口付近ゆうんは年中洪水や津波の危険があって、あんまし普通の人間の住むとこやなかった。そんでもこれが縁となったんかどうかはよう判らんけんど、出版の費用を出してくれた大スポンサーに「野口氏木屋半右衛門」ゆう人の名前が出てくるで。これから後の出版の出資者にも同業らしい木屋の名前がよう出てきとる。材木問屋かいな。

 この時分に本を出すゆうんは、もの凄い金の掛かることで、乞食坊主同然の真念さんにはどなんしたって出来んことやった。ほやけんど
、真念さんの人柄と情熱がそうさせたんか、スポンサーが次々出てくるし、一番大事な版元に大坂北久太郎町心斎橋筋の版木屋・五郎右衛門がなってくれて、出版でけとる。この本が売れると見込んだ版木屋・五郎右衛門も偉かったけんど、時代もそんなガイドブックを求めとったんやな。

 50年間に20数回も四国へ入った真念さんは、ものすごうようけの記録を資料として作ったげな。寺から寺への道順や距離や、その札所の辺りには何の誰べえが宿を貸してくれる、みたいな案内や。そんでわが(自分)が下書きをし、洪卓という高野山の僧に清書してもろて「四国邊路道指南」を出版した。貞享4(1687)年11月やったらしい。ほやけんど真念さんは、この本だけでは何やしらんもの足りんで不満やったげなな。

 そこのところを山本先生は「この本を出版しても真念は満足しなかった。案内に重点をおきすぎたため、寺々の霊験までは書きこめなかったからである。大師の熱烈な信奉者である真念は、霊場の由緒や霊験、そして大師の功徳を書きたかった。」

 ここで大野正義さんというお方のホームページ「論考集・四国遍路特集」を参考にさせてもらいます。このお方も、よう勉強しとられるで。参考までにアドレスも書いときますから、興味のあるお方は読んであげていた。往来手形のことも詳しいんで、後で大野さんの記事を参考にさせてもらいます。

 大野さんはこの「四国邊路道指南(ミチシルベ)」のことを「執筆者は眞念本人で彼の個性がよく出ている。知識人として見てもらいたくて、やたらに輸入外来語・漢語を多用し虚勢を張り背伸びしているのだ。現代のライター達の外来語・カタカナ多用の流行とそっくり同じで、笑ってしまうね。」と、評しとられます。

 なんやしら、世間全般や雲の上の権威に一生懸命に立ち向こうとる、生真面目やけんどしたたかな真念さんの姿が目に浮かぶでな。真念さんにしたら四国八十八ヶ所ゆうんやけん寺の数もきちっと八十八でなかったらいかん、そなん思い込んでの寺の確定に向こうたんやろ。ほやけんど、うかうかしとったら、どなんお叱りが高野山から飛んでくるかも知れん。気が気でないで。ほれより、巡拝コースから外された寺は、もっと怒っとるでな。そやけんか、続いてめんめ(自分)よりもっと知識のある人の筆で、四国の霊場記を書いて欲しいと思うたげなな。

 ほんで四国を一緒に歩いた清浄観中宣というお坊さんに相談したところ、高野山の学僧寂本(ジャクホン)さんを紹介された。この寂本さんはその時分の凄い学僧で、こんまい時分から高野山に上り、宝光院の阿闍梨(アジャリ)から潅頂(カンジョウ)を受けた身分の高いお坊さんやったげな。

 ここでまた山本先生や。「真念は寂本の庵を訪れ、恐る恐る霊験記の執筆を依頼した。しかも自分が収集した資料の一切を提供したうえ、それでもたりなければ自分が何度でも現地へ取材に行きますから、と申し入れたのである。」

 平身低頭しとる真念さんの姿が、目に浮かぶみたいやな。ほやけんど、出版はどなんしたってやり遂げる、ゆう決意みたいなもんも感じられるでな。

 あら、えらい時間が経ってしもた。今日はこの辺で止めとこ。続きは、またな。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.27 「真念さんと寂本さん」


この前は、真念さんの話しやったな。四国八十八ヶ所の寺を1番の霊山寺から八十八番の大窪寺まで、固定してしもたんは真念さんゆうんは、もう通説になっとります。熊野の九十九王子に対応してか、真念さんよかずうっと昔から四国八十八ヶ所たらゆう名前は付いとったらしいけんど、具体的にはどの寺が何番かは決めてなかった。ほやけん真念さんが出てくる前までは、88よりずっとようけ(沢山)の寺や神社を札所として廻っとったらしい。

 大阪から和歌山、淡路島を通って、徳島へ上陸するんは南海道の道順からゆうて当然やったわな。これから考えても、1番寺に徳島の鳴門の地を選んだんは、四国遍路が本土側に住んどるお人の考えから始まったゆうんがよう判るでな。

 ほやけんど、真念さんみたいに何遍も四国へお参りしとって、お大師さんが歩かれた道をそのまま辿りたいと思うたら、そのたんび(度)にお参りの札所が違ごうたらおかしいで。真念さんは50年間で20数回のお参りや。2年に1回やで。それやのに四国には88よりずっとようけの札所があって、廻り切れん。こらなんとかせないかん、そなん思うんは当たり前かもしれんわな。

 ほして鳴門の霊山寺を1番寺に決めた。それから88の寺をきっちり決めた。そやけんど、どなんしたって収まり切らん寺が残るでな。それは番外ゆうことにしたらしい。

 あら、そうそう、前回は寂本さんゆう高野山の偉い学僧に、真念さんは資料を差し出して、弘法さんの霊験記や功徳話を書いてもらいに行った話しをしたわな。その続きを書くで。

 山本先生の「四国遍路の民衆史」には、こなん書かれとります。

「寂本は遍路の経験こそなかったが、真念の熱心な説得に感じて承諾した。真念の収集をみると、あたかも現地に行ったような思いにもなったし、そのうえ年老いて遍路の時機を逸した悔悟もあって、霊場記をものにしてみようという気になった。こうして寂本は真念の資料を取捨選択し、読みやすいように和文で書き、『四国(偏)礼(ヘンロ)霊場記』を編纂したのである。」

 そやけんど、寂本さんは真念さんの資料どおりには書かんと、学僧の誇りと独自の見解で書いたらしい。

 「八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず、今は其番次によらず、誕生院(善通寺)大師出生の霊跡にして(偏)礼(ヘンロ)の事も是より起れるかし、故に今は此院を始めとす」こなんゆうて七十五番の善通寺から出発としたらしいで。それから、それこそ真念さんが学僧の高い学識と見識から権威付けてもらいたかった各寺の言い伝えや霊験譚も、寂本さんは切り捨てた。

 「寺の縁起は個人的なあて推量や勝手な意見でつくられたものである。本書は私記ではないので、道理に合わないものは取りあげない」「書物というものは古い昔のことを調べ後世に伝え、模範として人々の迷いを解き、道を弘める器なのであるから、でたらめな妖怪変化の類は書かない。」

 こなんして、案内書や手引き書みたいな要素のない、学術書みたいな豪華本が数年の歳月をかけて出来上がったんやと。言葉も普通の遍路や辺路を嫌うて、(偏)礼(ヘンロ)の雅字を使うたらしい。ここでお詫びしますが、(偏)の文字はほんまはギョウニンベンでないといかんのやけんど、この字がどなんしたってパソコンに見当たりません。苦し紛れの当て字です。堪忍な。

 これでは真念さんは納得でけん。仏さんの功徳こそが救いやと信じとる民間伝道者の頭陀には、学問的な知識は二の次で良かったんや。それが寂本さんに無視された。そしたらどうな、こらえ切れんでわが(自分)で第3番目の本を出してしもた。こなんなったら執念やな。その名も、寂本さんの「四国(偏)礼霊場記」に対して、「四国(偏)礼功徳記」にしたらしい。

 ここで山本先生が本の出資者を書いとられるけんど、寂本さんの本はもの凄う金が掛かり、大坂木屋市良右衛門を始め、おんなじ木屋の野口氏や100人近い人たちが出資したらしい。真念さんの第3の本も、やっぱし大坂木屋市良右衛門を中心に、25人の支援者の名前があるらしい。

 このあたりのことを山本先生は、こないに分析しとられる。

 「四国や近畿の農村に住んで、そこにいた父祖をもつ助縁者たちが、時代の急激な発展に伴って大坂へ来て商人となってまがりなりに成功したとはいえ、捨ててきた故郷への呵責と思慕はうち消すことができなかったのであろう。」

 この出資者の資金は、「喜捨」と表現されとるげなで。ほんで、この3冊のうちでは、豪華本の寂本さんの案内書があんまし評価されんと、真念さんの「四国遍路道指南(ミチシルベ)」に人気が集まって、1部百文もしたけんど売れ行きがようて次々と版を重ねて、江戸時代を通してのロングセラーになったんやと。そいで、この本の売れ行きに重なるみたいに、四国へのお遍路さんの数が増えていったそうや。

 こなんして四国遍路が大衆化していったげな。日本中がお伊勢参りや観音霊場、金比羅参りや四国遍路みたいに、参詣者で溢れていったんやな。

 ほしたら昔の人の望郷の念と遍路への郷愁が、どんだけ激しいもんやったんか、改めて考えてみるでか。丁度ええ案配に、山本先生の本に時代を超えて明治以降の北海道移民が大師信仰を求め、その求めに応じて霊場をこさえ(造っ)た話があるけん、これを紹介させてもらいます。

 ほしたら次は、北海道の大師信仰と観音霊場の話です。ほなこれからも、気ぃ付けて行きまいよ。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.28 「北海道移民の歴史」

ようお出でたな、ほしたらぼちぼち行くでか。これから北海道の旅や。
 
北海道ゆう地名は、明治の時代になって出け(来)た名前や。それまでは、蝦夷(エゾ)地とか蝦夷(エゾ)ヶ島ゆうとったらしい。明治の新政府があれこれ考えて、東海道や南海道を真似て北海道にしたんやと。普通、道は線やけんど、北海道だけは道路でのうて行政区になっとんのが奇妙やな。

 ほんなことはどっちゃでもええんやった。明治新政府は北海道を作ったけんど、肝心の人手が足りん。ほんで明治6年に屯田兵を全国から募って、土地の開拓や北からの国土防衛に当たらした。初めは戊辰(ボシン)戦争で負けて行き場の無うなった東北各藩の武士や禄を失しのうた武士の救済を目指したけんど、絶対数が足りん。それにだいいち元武士みたいなんでは農業の経験が無いけん、開墾は失敗ばっかしやったらしい。

 それでこんどは一般の平民にも募集を広げた。応募したんは生活困窮者がほとんどで、貧乏な県ほど人数が多かったげな。ほしたら1番が石川県で、2番目が香川県やったんやと。各県でも窮民の救済に手を焼いとったけん、無茶苦茶な嘘で、さも未開の地は前途洋々で、地上の楽園みたいな紹介をしたらしい。まんでドミニカ共和国か「北○○」の話みたいや。

 その嘘がどなんもんやったんか、山本先生が詳しいに書いてくれとるけん引用してみるで。明治24年7月、高松市の興正寺別院で、時の県知事が「・・・他県に比べて 三倍近くの人口密度の高いわが県は、あまった人口は路頭彷徨の餓鬼に陥ることになるであろう。わが県の財を尽くして救済に投じてもこれは不可能である。県下人民を移して北海道に住まわしめば、わが県の前途にとって幸いであるし、最親の同胞をして未開金穴を握らしめんとす。すなわち禍を転じて福と為すものである。そしてその福たる北海道は耕耘(コウウン)に適する肥沃の平原三億万坪に余り、牧畜に適するもの一千万坪に近く、蔬菜竹木至る処に叢生して人の彩るに任かせ、魚介は河海に満ちて人の獲するに任かす。居ること三年にして五町の良田を開拓し得べく、其の最も勤勉なる者にありては五年、六年に至って十町の良田を招き得るに難からず」と説得したらしい。そんで明治25年、1,100人もが移民したんやと。

 ようこんだけ嘘がつけたもんや。ほんまのことは、次の記述が教えてくれるで。

 「明治三十六年、道内三十七ヶ所に計七千三百三十七戸、約四万人が入植したが、まだ当時は北海道は国有地でなく、新政府の高官や華族に『無償貸付、成功後は無償付与』とタダ同然で官有林原野の払い下げが行われていた。開拓民は小作人という形で入植した。」「香川県移民が一番多く入植した所は雨龍郡南秩父別で、そこは元阿波藩主の蜂須賀家の所有地になった所である。のち小作人が高額な小作料に怒り、争議を起こした、かの悪名高い『蜂須賀農場』となる。」

 もうひとつ、県知事の嘘八百の移民政策よかちょびっと前に移民した人たちの例が、北海道移民の困難として書かれとります。これ見たら、ほら苦労しとるんがよう判るで。

 「明治二十年四月、(香川県で教員をしていた)岩倉三代吉たち三家族は北海道有珠郡伊達村に着いたが、移民地に行くには湖面を渡らねばならなかった。だが、だれも助太刀する人はいない。岩倉たちはしかたなく、わずかに雨露をしのぐべき仮小屋をそこに建てて妻子を休ませ、男たちは東西に奔走して、腐りかけた舟をみつけて、三家族全員が湖畔を渡った。」「小屋をつくって起き伏し、湖魚や野草をたべて飢えをしのいだ。貸付指定の土地一の原、二の原はことごとく樹林で、熊や山犬が白昼横行し、土地は劣悪をきわめていた。」「さっそく岩倉ら男たちは四方に奔走して、洋犂(スキ)などの農具、牛二頭、馬六頭を買い求め、四十町余(40ヘクタール)を開墾しはじめたが、郷里から持ってきた種(タネ)類はことごとく用をなさず、芋や大豆、ソバ、キビ、粟の種を必死になってあらためて買い求め、三十余町歩へ播(マ)いた。八月十二日大霜が降りた。温暖な香川県にいた者たちにとってはそれは考えられなかったことである。青々と繁茂した作物は一夜にして枯死状態になり、九月初旬にいたって、ほとんどの作物が腐敗してしまった。芋がわずかに獲れただけである。」

 「人びとはみな絶望の底にたたきおとされ、集会を開いて善後策を話し合ったが、明年のことを憂う人は退散していき、極力開墾していこうという人だけがとどまることになった。彼らはその年は出稼ぎしてわずかな賃銭で妻子の食を求めるほかはなかった。」「はじめての冬は飢えと寒さで文字どおり生死と隣り合わせであり、馴れない気候風土と過労で病に倒れ、死者も少なからず出るありさまであった。それでもしだいに土地に馴れ、開墾もわずかながら軌道にのってきた。近隣といっても数里もあったが、彼らは互いに扶助し合いながら、少しずつではあっても生活に余裕ができるまでになってきた。」

 こなんして、生死を賭けた苦労の中で年月が過ぎ、過酷な極北の気候風土にも慣れて余裕が出てきたら、想い出すんはあのぬく(温)かった讃岐の田園風景やなぁ。菜の花畑の揺れに紛れて歩く遍路の白装束と鳴り響く鈴(リン)の音が、幻の面影みたいになって望郷の念を強めたらしい。こんな話は、ハワイ移民の歴史でも聴いたで。

 ほしたら次は、北海道で始まった大師信仰のお話しや。まんで万葉か平安の時代にあった地獄みたいな生活の連続から、極楽浄土を夢想して遍路旅を作り出していった人たちの話と似てくるで。ほな、またな。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.29 「北海道移民の大師信仰と巡礼」

 広大無辺の大地に生きる讃岐の移民たちは、春になると抑えがたい郷愁に駆られてしもうたげな。山本先生の文章では、「彼らの耳底にチリンチリンと鈴(リン)の音がよぎる。なつかしい故郷の音だ。春のおとずれは讃岐の路を行く鈴の音から始まり、ゆかしい遍路の姿が菜の花畑や麦畑のなかにちらほら見えかくれする。」「郷里には弘法大師生誕の地、善通寺がある。見上げるほど高い五重の塔、ご誕生院、さらに回廊をいくと御影(ミエ)堂、その地下にある長くてまっくらな戒壇を怖る怖る歩いた子供のころの数々の思い出がはっきり浮かび上がってくる。」

 ここからや。移民の衆が動き出したんは。感動的やで。

 「そうした共通の思い出の中で、だれいうことなく、毎月二十一日、二、三軒の家族が集まって、弘法大師の祭壇を飾り、ご詠歌を唱えるようになってきた。

 その集まりはだんだんひろがっていき、四、五里離れた隣家から十何里も離れた家の人たちまで、『うちも加えさせてくれ』と、十家族くらいが集まり、大師講が形づくられた。定められた日に当番になった家では、袋をもって加入者の家を廻り、お米を湯呑み茶碗に一ばいずつ集めてくる。そして当番の家に届けられている木箱の中の道具を出して祭壇をつくる。祭壇といっても仏壇用の敷物一枚、お大師様、十三仏様、お不動様の掛図と小さな鐘、お灯明台、お供物を乗せる華足(ケソ)二個、お経の本などである。それらはささやかではあるが、開拓村にとっては最高の共有財産なのである。」 

 「夕刻になり皆が集まるとお経をあげる。年輩の人がお経の本を開いて一節、一節鐘を打ち鳴らしながら読み上げ、一同大声でこれに唱和する。錫杖をもった弘法大師が、一人ひとりにいつくしむように愛の手をさしのべる感じがし、故郷の風が、故郷の匂いがよみがえってくる。みなその陶酔感にひたる。わけもなく涙が頬をつたわる。」「お経が終わるとお膳を出して夕食をともにする。どこの家でもたいてい献立はきまっている。豆腐、油揚げの汁、こんにゃくの白あえ、少し砂糖を加えた煮豆、大根とにんじんのなます、野菜の煮しめなどで、ご飯はこの日のためにとっておきの白米である。酒も少々いただき、家族たちはうちとけ合い、夜のふけるのも忘れて、世間話に花を咲かせるのである。」

 引用が長ごうなってしもたな。ほんだけんど、ように判ってもらおう思うたら、文章を引かなしょうがない。ほして、この雰囲気はよう判ったでしようが。こっちゃまでが、涙が出そうになってきたで。

 さぁ、こなんなったら、あっちゃこっちゃで講の輪は広まるでがな。いろせな宗教の施設が造られた。みんな心の拠り所や。ほれと、こなんな理由もあったらしいで。

 「北海道のお寺は、一部を除いて殆どが、明治の8年〜32年にかけて北海道開拓のため入植した屯田兵、又その方々を頼って入植した人達が、この大地に腰を据えた時、葬儀法事を司る僧侶と、その僧坊寺院の存在が必要となりそれぞれの出身地より伝(つて)により僧侶を呼び寄せた経過が有る。僧侶を呼び寄せる為には、居着いてもらう為にある程度の住居が必要であるし、又信仰の場所としても、寺院は集落の中心でなくてはならないため市街地の中心部に立っている。本州寺院のように山に又山裾にあることは少ない。(HP丸山寺の歴史より引用)」

 こなんなると、みんなの心に浮かんでくるんが巡礼の夢や。あっちゃこっちゃ廻りたい、これは一体何なんやろな? 世界中、ほとんどの宗教が独自の巡礼路を持っとるで。沖縄でも仏教は根づかなんだけんど、先祖崇拝の御嶽(ウタキ)を巡る東御廻い(あがりうまーい)ゆうんがあるで。もっとも沖縄のは、贅沢な士族の行列やったけどな。

 ほしたところが、北海道にも大正の真念さんみたいな人が現れたんや。「北海道三十三観音霊場」をつくった人や。それも、女の人やで。

 うわぁ、これから話を続けとったら、長ごうなってしまう。話の続きは次にするわな。ほな、今日は早いけんどここまでにするで。さいなら。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.30 「山本ラクと北海道三十三観音霊場」

さぁ、今日も行くでか。北海道の話やったな。
 
明治も終わって、大正時代や。四国の開拓者が入植して30年が過ぎた。あっちゃこっちゃに出け(来)た大師講の仲間では、いつからか四国みたいな札所参りの巡礼が夢みられるようになったげな。ほしたら、その夢を実現してしもうた人が現れたんや。現代の真念さんや。
 
大正の初め、徳島県に山本ラクゆうオナゴシ(女子)がおられた。生まれは弘化2(1845)年ゆうけん、もう60をとうに過ぎとる。ラクさんは徳島の板野で農家に生まれたけんど、どなんした不幸か家族のほとんどが若い時分に死んでしもうたげな。ほんでも20歳で結婚し、長女を生んだ。ほれから何があったんか判らんけんど、離婚して長女と2人暮らしになった。田舎では暮らしにくかったんか、田畑を売り払ろうて、徳島の町に出て旅館を始めた。商売はものすごう繁盛したけんど、娘が24歳で死んでしもうたげな。ラクさんは40歳過ぎやな。

ほれから直ぐに養子を貰ろうたげなけんど、この養子にも26歳で死なれてしもうた。よっぽど家族運に恵まれんお人やったんかな。ラクさんも、もう60歳過ぎや。

ここから山本先生の文章です。「人の世のはかなさ、むなしさを知ったラクは、最後の気力をしぼって、心のやすらぎを宗教に求めていった。」「ラクの故郷徳島県も香川県と同様、二十年前から北海道へ、数多くの若者たちが移民していった。北国のきびしい寒さのなかで闘っている同胞に思いをはせ、開拓者の心の支えになるなら、私財を投げ出してもいいと思った。血を分けた家族はもう一人もいないが、お大師様を信仰している同郷者なら家族同様なのだ。その人たちが大師講をつくって励まし合っているというではないか。そうだ、霊場をつくってあげよう、とラクはそう決意したのである。」

大正元年、ラクさんは北海道へ単身乗り込んだ。徳島出身の人たちはものすごう喜んで、こぞって協力を申し出たそうや。ほら嬉しいわな。どっちゃか言うたら、故郷を捨てて出てきたもんは後ろめたさ心を痛め、反対に故郷に見捨てられたみたいな空漠とした気にもなっとるで。そこへ霊場をつくろうゆうて、全財産を持ったオナゴシ(女子)が現れたんや。ほんまは、ラクさんは八十八ヶ所をつくりたかったげな。ほんでもそれは体力的に無理やし、肝心の受け入れの寺の数も足りんで、しょうことなしに三十三の観音霊場にしたそうや。

ここに北海道の霊場を説明したホームページがあるけん、そこから引用してみるでな。「徳島県出身の山本ラク(得度名・善真)さんの発願により、大正2年(1913)真言宗の寺院を中心に観音像が配納されたのをもって開創とします。ラクさんが徳島市での旅館業を整理し、全私財を投じて造顕された三十三体の観音像は名古屋の名仏師『八代目亀井義門(後に慈応)』の一刀三礼によって謹刻されたもので、西国三十三観音霊場の各御本尊を縮尺したものです。」

もうひとつ別のHPでは「像を安置する台座には『施主.山本ラク一力』と書かれています。つまりラクさんの独力で奉納されたことが分かります。この観音像の開眼は開創の前年、大正元年名古屋市において当時の高野山の管長を迎え盛大に行われた。ラクさん68歳の時でした。この霊場開創に当たっては、ラクさんの出身地の徳島県板野郡から開拓にやってきた人々が物心両面の協力をしました。又札所の配置においては道内寺院の住職が力になりました。」

こなんして、函館を一番に道内全域を廻れるような三十三の札所が出来てしもた。楽しみのすけ(少)ない開拓村は、歓びに溢れたと思うで。ほれからのラクさんは「霊場設立後大正7年(1918)しばらく旭川市に大師教会支部を設け信仰生活を送りますが、大正12年故郷徳島に帰り、菩提寺の円行寺に身を寄せ、大正15年1月17日82歳の生涯を静かに閉じました。」ということです。

さあそれからや。

所は大正時代の北海道や。交通の便も悪いし、社会情勢も戦争がらみで不景気が続いとった。ほんで「この霊場が開創されたとはいえ、自然の厳しさ、経済状況等から霊場を訪れる巡拝者は有りませんでした。しかし、山本ラクさんの強烈な信仰の火を消さぬようにと資延憲英僧正の努力により、開創から75年がたった昭和60年、霊場会が発足し北海道三十三観音霊場が蘇りました。」となって今に続いとる訳です。

いつの時代も、どなんな場所でも、人間はなんぞに縋りたい想いが湧くもんらしいで。これが巡礼の興りですわな。

えらい長いこと、巡礼の興りを訪ねて歩きましたな。ここらでちょびっと休むでか。お別れするんは淋しいけんど、またいつか逢おうでな。あんまし四国遍路のことでは、おまはん等の参考にはならなんだと、申し訳のう思うとります。爺の力不足やな。恥ずかしぃ限りですわ。

と、書いたところで、忘れとりました。「往来手形」のことを書くゆうとったな。こらいかんわ。まだ終われんでな。ほんなら、ま一辺気ぃ取り直して、次に手形と行き倒れの事情みたいなんを書きます。では、またちょびっと付き合うていたな。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.31 「往来手形」


ようけ歩いたでなぁ。

ほんでも何百年も前から人間はこなんして歩いとったゆうんやけん、お遍路さんゆうんにはなんぞがあるんやろな。これはもう宗教の枠を超えとんとちゃう(違う)んな? どうしてやゆうたら、仏教徒でもないキリスト教のお方でも、四国霊場を歩いとったら気持ちがええゆうとるで。

世界中に巡礼の道ゆうんがようけあるげなけんど、よう考えてみたらほんまに不思議でがなぁ。これとゆうんも、わしら人類はどこから来てどこへ行くんか、ように判らんのや。ほんでもみんな、我ががどこから来たんかを知りとうなるわな。ほしたらみんなめんめ(自分)が来た道を捜し廻るみたいに、故郷(ふるさと)回帰の衝動が起こるみたいやで。人間ちゅうんはだいたい衣食住が満たされたら、あれこれいろせなこと考えるもんで。

あれこれ考えよったら、まだ見たこともない土地の話を聴いたりして世界の広さを知ることになる。ほしたらみょうげにそれに憧れたり、遠くにあるげな都たらいうもんに恋い焦がれたりして、居ても立ってもおられんげになるんやろな。

昔、井上靖(やすし)ゆう小説家の詩集に、こんなんがあったで。

こんまい村の入江の砂浜があって、漁師の若もんが海の向こうにあるいう都に恋い焦がれる話やったな。毎晩毎晩浜辺へ出ては水平線の向こうで明々と光り輝く都を想い描いて、その若もんは右へ左へ波打ち際を走り回る。食べるもんも飲むもんも喉を通らんと、ついに若もんは水辺で倒れてしまう。月だけが若もんを照らしとるような、悲しい内容やったかな? 題も中身も忘れてしもうたけんど、異郷に焦がれる民衆の心根みたいなもんが、みょうげに記憶に残っとんや。

江戸時代も中頃になったら情報が一杯溢れだして、庶民の知的レベルは向上したし、お伊勢参り、金比羅参り、ほれに西国、板東、ほして四国遍路とその数はようけ増えたげなな。もうこなんなったら抑えられんで。とゆうても異国への旅は一般庶民には高嶺の花で、はじめに巡礼に出掛けたんは経済的にゆとりのある庄屋とか分限者(ぶげんしゃ)らやった。その時分の納め札には、名字の付いた名前ばっかしが残っとるらしいで。

ほんでも勝手に在所を離れられんわな。そこで出てくるんが通行許可書みたいなもんや。これを「往来手形」と呼んどるで。発行するんは檀那(菩提)寺や。徳川幕府が本末制度を徹底させて「宗門人別帳」が完成しとる証拠やな。いまの住民基本台帳みたいなもんや。試しに適当な見本をインターネットからコピーしてみるで。

─無断借用やけんど、こらえていたな。─

【読み下し文】四国往来手形の事
一 山崎寿丸殿領分備中国川上郡増原村政右衛門と申す者并(ナラビ)に同人娘さと〆て弐人、右の者共宗旨は代々真言宗にて拙寺檀那に紛れ御座無く候。然る処、心願御座候に付、今般四国順礼(巡礼)に罷り出で申し候間、国々所々御関所滞り無く御通し下さるべく候。若し行暮候節は止宿へ仰せ付け下さるべく候。万一何国にても病難・病死等仕り候わば、其の時の御作法に御取計らい下さるべく候。尤も国元へ御付届けに及び申さず候。其の為往来手形仍て件の如し。
  文政十三年寅二月日         同国同郡同村                      宝蔵寺(印)
  国々 御関所
  在町 御役人衆中

前書の通り相違御座無く候間、宜敷き様願い上げ奉り候以上。
                          同国同郡同村庄屋
                              作右衛門(印)

これを見たら江戸の終わり頃げなな。年表を繰ってみたら文政(1818〜1829)年間は12年までやったらしいけんど、ここでは13年になっとるな。まぁ、ほんなんはどっちゃでもええでが。この往来手形ゆうんは、初めごろは檀那寺の住職が旅に出る人間が仏教徒であることを証明する「寺請(てらうけ)証文」ゆう身分証明を書いた。

それとは別に、村役人が出国を証明する「村送り証文」を書いたもんらしい。初めはその2通に分かれとったんが本来の「往来手形」らしい。それが後になったらだんだん形式化して1枚にまとめられて、その内容も行く先々までの手配を考慮して処遇を頼んだり、仕舞には行き倒れたらその土地の作法で弔って、いちいち国許へ連絡は要らんとまで書かれるようになったげな。

ここでよう間違われるんに、この往来手形とは別の「関所手形」ゆうんがあったげなな。関所ゆうんは幕府や各藩が決めた街道の監視場所で、この手形には寺の署名は無うて村役人の署名と用件が書かれとるだけや。特に厳重に取り締まられた「出女に入り鉄砲」ゆう言葉が有名やけんど、これは江戸幕府の取り締まりで、「出女(でおんな)」ゆうんは江戸屋敷に住まわした大名の妻女が黙って江戸抜けするんを防ぐことやった。「入り鉄砲」ゆうんは反乱に使われる鉄砲が江戸へ入るんを防ぐ意味やったらしい。この「往来手形」と「関所手形」を総称したもんが、通行手形になるゆうことですわ。

話が逸れたけんど、この「往来手形」に書かれた、どこで死んでもその土地の仕来りで葬ってくれゆうんは、その時分の四国遍路の旅がどなんおとろしげなもんやったかとゆうことを意味しとるわな。ほしたところがこれとは別に、昔の業(ごう)病に罹(かか)って家族と一緒に住めんようになって死ぬまで歩き通す定めを背負うたらしい人に、寺の署名もない村役だけの手形を出しとるんがあるけんど、これが「捨て往来手形」げなな。その人らは、生まれ在所や家族のもとへいね(帰)るあてもなかった、辛い話や。白衣(びゃくえ)がほんまの死に装束で、菅笠が棺桶の蓋代わり、金剛杖が墓標に見立てられとる、それが四国遍路の持っとるもうひとつの顔やったげなな。

ここで話を変えて、もうひとつ四国遍路で忘れてならんことがあります。「お接待」や。これがいつごろ言われ出したんかハッキリはせんけんど、四国遍路の代名詞みたいになっとりますな。

あらいかん、えらい時間を食うてしもうとる。「お接待」の話をしょう思とったけんど、時間や。四国の接待と行き倒れの話は、次にするけんな。ごめんで。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.32 「お接待」


今日は、「お接待」について話しするけんな。例によって、山本先生のご本「四国遍路の民衆史」から引用させてもらうで。先生は、どんな貧しいもんでも長旅の遍路に出られたんは、四国で「お接待」があったけんやといわれとる。米、味噌、野菜の食べもんや、ワラジ、手ぬぐい、ちり紙みたいな必要品を与えてねぎらう風習があったからや、と。

「かっての行基や空也などの聖や、巡礼という聖なる行為の実践者に『布施』を捧げて仏恩を受けようとした。それらを『作善』『報謝』『喜捨』『勧進』『善根』ともいったが、みな同じ意味である。江戸時代に入って、一般の人々の間にまで巡礼が行われるようになり、『接待』とよばれる風習が定着した。『布施』や『作善』などと本来的な意味は変わらないが、世俗の身でも真剣な苦渋にみちた姿に打たれて、彼らに深い共感と同情が加わり、『接待』という形になっていったものであろう。金品を与えるという接待の風習も、やはり西国巡礼から始まったが、元禄期ごろから、西国霊場では巡礼者への接待は大幅に減少していったという。」

「先進地である西国霊場あたりは、交通施設は充実するし、商工業も発達し、しだいに物見遊山(ゆさん)の客が多くなってきたのである。沿道には旅籠(はたご)、茶屋、駕籠(かご)屋、はては遊女屋まで現れるまでになり、巡礼者自身も遊楽気分半分で求道心が稀薄になったため、世人の同情・共感が得られなくなってしまったからである。」

ところが四国遍路は違ごうとった。物見遊山の雰囲気は初めからなかったげなな。

爺のこんまい時分、ようけ遍路が歩いとったな。ほんまの信心のお遍路さんから、どなん見たって本物の乞食やったり、怪しげな行者やったり、デコ(人形)回しの門付け芸人もおったで。あれは戦後の昭和20年代やったな。

そんな時分のことやけんど、隣町に住んどった人の話に、毎年ご先祖の命日になると親御さんから「お接待」のためにお遍路さんを捜してくるよう指示されたんやと。村中を走り回って、それらしい人影をやっと見付けたら「泊まっていっていた(下さい)。どうぞ、お接待させていた。」そなんゆうて袖を引っ張ったらしい。驚く遍路を連れて帰って、晩ご飯からお風呂の接待までするんが、その家の仕来りやったらしい。なんや、夢みたいな話しでがなぁ。これが四国の「お接待」のひとつや。

ほんだら、また山本先生の本から読んでみるで。

「四国遍路はすべて忍耐の連続である。寺数も西国の三倍近くあり、日数も三倍以上かかる。健康状態を最後まで維持することはきわめてむずかしく、遍路する日数が増えれば、それだけ病者、行き倒れも多くなる。それ故、遍路者を信仰心厚い求道者として遇する社会の同情も消えることはなかった。接待は江戸期にかぎらず、明治・大正・昭和とつづき、それは四国霊場特有の一つの風習となった。」
「また接待が積極的に行われたもう一つの大きな理由は、信仰の対象が如来や菩薩とちがい、弘法大師という人物がこの世にたしかに実在した、われわれと同じ人間であったという親近感から、遍路への施しが大師への供養・報謝と同義だという感覚が育まれたからである」
 とはゆうても、この接待の費用も大変で、ゆとりのあるゲンシャ(分限者・金持ち)か日銭がはいる商家でなかったら、ようけはでけなんだ。こなんな例もあるげなで。

「土佐安芸郡馬路村は集落によって、唐黍(とうきび)、大豆、煎り米、餅など一年間で一軒あたり平均一・五合から三合。同郡川北村では約一升と、貧しい村、豊かな村それぞれの事情に合わせて接待量を取りきめている。もちろん強制的でなく、貧者は負担しておらず、富者が多く負担する。富者の中には辺路宿を無料で提供する者もある。」

この接待は、天保7年の全国的な大飢饉のときでも、四国では普通に行われとったんやと。それにこれは特殊やけんど、四国の外の土地からの接待もあったらしいで。紀州接待講、有田接待講、和泉接待講ゆうんが有名げなな。

このうち紀州接待講が一番有名で、高野山麓の講で毎年春ごろ阿波の日和佐・薬王寺まで船を3隻満杯にして乗り込んで来たんやと。

次は有田接待講で、名産のみかんや米を阿波の鳴門へ船で送り込んで来たげな。それがだんだん派手になって、明治になったら船20隻までになったそうな。

和泉接待講ゆうんは、大坂の泉州の講で阿波の小松島を接待場所にしとったげな。

30人〜50人の世話人がおったゆうんやけん、凄い数やな。ほかにも大坂、播磨、備前、備中、備後などの国も接待講があったゆうて、山本先生は書いとられる。

ここで不思議なことが書かれとる。この熱心な接待講のどの土地も、貧しい農民で一揆や打ち壊しをしとる。「その貧しい農民たちが遍路に接待を始めたのである。自分たちも食うや食わずであるのに、米一合、大豆一合と、だれの命令でもなく、自発的に始めたのである。高野山領の紀州接待講は文政二年(1819)から始まった。うちつづく凶年で文政六年ついに一揆が起こった。凶年の最中、一方で一揆を起こしながら、一方では接待講を始め、食物・品物を山積みした接待船が毎年欠かさず紀ノ川を下っていったのである。」

高野山領の農民は、自分たちの領主や豪華な法衣をまとった高僧を信じず、潮たれて山風に打たれて歩きつづける遍路の姿に、弘法大師を見、接待するわが心の中に、弘法大師の心を感じとっていたのだ、と書いとられる。

ほな、お接待の話はこれで終わるで。