塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の十四 「空海さんの話(奇跡のような不思議の連続@)」

これから3べんは、空海さんにまつわる不思議のあれこれを、年代順に見てみるで。

修行の旅から都へ戻った空海さんは、密教の教えを学ぶうちに大日経が一番大事やと知り、それを探し廻ってついに夢で在り場所を知ったげなが、ほんまやろか。

不思議の始まりやわ。

ほいでそれを読んで、そのほとんどを理解したとゆうから凄いな。

ただ、密教は文字で書かれたもんを読んだだけでは理解できんらしい。

またサンスクリットで書かれた部分が、もうひとつよう判らん。やっぱし唐の国へ行かないかんと、がいに(強く)思うたげな。

そしたらどうな、これまで20年間中止されとった遣唐使が、空海さんを待っとったみたいに開されたんや。

噂では、最澄たらゆう自分よりたった7つだけ年上の若者が、その当時日本最高の仏教者代表として唐へ渡るらしい。


空海さんは私度僧やったから朝廷が認めた正式の僧侶やないし、国の事業に参加する資格もない。

それで慌てて得度して正式の官僧になったらしい。

31歳や。

この官僧になるのんはたいがい難しい。

それが何やしらんけんど、その気になったらすぐになれとる。

奈良仏教界の長老たちに可愛がられとったお陰やろな。

そやけど今度は遣唐使に入れてもらわないかんけんど、これは官僧になるよりずっと難しい。

ほれでもやな、どなんしたコネで出来たんか、見事に滑りこめとる。もっと不思議なんは、正式な遣唐使船団は1年前の延暦22(803)年に難波の港を出発してしもうとったんや。

もう間に合わんのや。

ほしたらどうな、なんとその遣唐使船が瀬戸内海で座礁して、博多で1年余りも修理と風待ちで待機になってしもうたそうな。

ほいで追い付いたら欠員ができたんか、乗り込めたらしい。

ほんまは死にに行くような旅やけん、逃げ出したいもんはようけ居ったげなで。それで後から追い掛けて間に合うたゆうんや。

どこまで運がええんか、ほれとも天が味方したんやろか。

もうひとつ空海さんにとって大問題やったんは、旅費のことや。

最澄はんは還学生(ゲンガクショウ)ゆうて、ゆうたら国の視察者ゆう身分で費用は全部国から出してもらえるし、通訳まで付けてもろうとるけん心配いらん。

空海さんは留学生(ルガクショウ)で勉強に行く身分やけん、支給金は少なかったはずや。

ほしたところが、どこから工面したんか、ようけ持って行っとるげなで。

中国での交際費や帰りに買うた道具類、経典の数をみたら、どないみても今の金で何千万から億単位の金やったらしい。

讃岐の一族から掻き集めたか、一説では桓武天皇の子の伊予親王はんも支援してくれたらしい。

伊予親王さんが、伯父さんの阿刀大足(アトノオオタリ)の教え子やった関係やろな。

ところで還学生(ゲンガクショウ)ゆうたら、教えを受けて経典を手に入れたら2,3年で帰れる決まりやけんど、留学生は勉強を達成せないかん。

その時の決まりで留学生は、20年中国に滞在が決まりやったらしい。

ほれでも空海さんは行った。

その後の動き方を見とったら、初めから20年も居る気はなかったげな。

まんでおとろし(恐ろしい)もん無しや。

ここまでのことを一言でゆうとるけんど、どれひとつ取っても偶然と幸運にめぐまれて、そのうえ周りの熱烈な援助がなかったら、どなんしたって実現しとらんことや。それが全部できとんやけん、不思議なお人やな。

やっと博多を出発した遣唐使の船は4隻やった。

あの頃、日本の船はへぎ板を重ね合わせたみたいなもんで、竜骨もない箱船やったらしい。

大波を受けて捻れたら、直ぐにバラバラになるんやと。そんな船やから、沈没するのが当たり前みたいやったらしい。

ほいで、その時も3番船と4番船の2隻は沈没したそうや。助かった1番船には空海さん、2番船には最澄さんが乗っとった。

嵐のために空海さんの乗った1番船は、2番船とも離れてずっと南へ流されて、いまの福建省へ漂着したらしい。

福建で密航船と疑われて渚に何日も座らされ、藤原葛野麻呂(カドノマロ)とゆう遣唐大使がどない嘆願書を書いても中国の役人に相手にされなんだんが、空海さんが書くと手のひらを返したように丁重な扱いで上陸が許されたそうや。

この名文章といわれる「大使のために福州の観察使に与うる書」とゆうもんは、今も「性霊集(ショウリョウシュウ)」に残っとるげな。

いつもこれや。

どこまで運が強いんか、それとも実力やったんかよう分からんけんど、不思議は付いてまわっとる。

まだまだ続くけんど、時間や。後はまた、次にしようでな。

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