塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の十八 「民間信仰を広めた聖(ヒジリ)」
きょうもええ天気で、よござんしたな。

長いこと空海さんについて喋ったけんど、どなん考えたって不思議なお人やった。

その空海さんの後、平安時代末から江戸時代までの世の中の移り変わりを、これから何遍かに分けて見ることにしようでな。

ほんまに田舎のおっさんやおばちゃんや、そんで若いおなごし(女衆)までが遍路旅に出られるようになったんは、ずっとあとの江戸時代からやといわれとるで。

ほんならほれまでの、世の中の移り変わりをまいっぺん見ようでな。

平安時代ゆうたら、桓武(カンム)天皇が都を平安京に移した794年から、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた1192年までの約400年間のことやいわれとります。

その初めの時分(ジブン)に空海さんが生まれて、民衆のための宗教・真言密教を体系づけてくれたんやけんど、あっちこちの民衆に直接教えを伝えたんはその後の別の人たちらしい。

高野聖とゆう人たちや。

昔からこの聖(ヒジリ)たらゆうもんが、全国を歩き回っとるげな。

その代表が、行基(668-749)や空也(コウヤ903-972)と言われとるで。

貴族や朝廷に護られた寺院仏教を嫌うて、ふたりとも乞食坊主になって民衆の中へ踏み込んで行ったそうな。

これを聖(ヒジリ)ゆうたけんど、こなんした聖がようけおって、全国を歩き回ったんやな。

ところが聖たらゆ(言)うんは仏教界のことばで、神さんのがわからゆうと、もともとはお日さんのはたらきを知って、稲作や気候の動きに精通した「日知り」又は「火知り」の役職からきとるんやとゆうておられる。

どっちゃにしても、大衆を教え導く役割が仕事の人たちやったんやろな。

この聖の役割を、爺の教科書「四国遍路の民衆史」(山本和加子著)から詳しく写してみるで。

「民間への伝道活動にはさまざまな形をとる。

空也の普及法は、金鼓を叩き、念仏を唱え、わかりやすく説法する。

説法に歓喜した人びとは空也に一紙半銭のお布施をさしあげる。

このように金品を受け取る行為は『勧進(カンジン)』と呼ばれた。

こうした民間伝道者は、室町時代まで数多く現れた。

今日でも名が知られている人に、行基、空也、長源(チョウゲン)、法然、親鸞、一遍という人たちがいる。」

「空也を市聖(イチノヒジリ)、一遍を捨聖(ステヒジリ)というように、仏教を民間に広めていった人を聖と呼んだ。

古代から寺院にはいれない、正式な僧と認められない下級の宗教者が相当いた。

山中に入って練行し、苦行を重ね、山のもつ霊力を身につけた半僧半俗の人を優婆塞(ウバソク)とか頭陀(ズダ)とよんでいた。

空海も青年時代、優婆塞に身をおいたことがある。

山岳信仰や特殊な霊魂観、山中他界観、また陰陽道や道教もとり入れた修験道の道者も優婆塞と呼ばれた。

修験者も頭陀巡礼し、呪術的な力を行使し、占筮(センゼイ)とか祈祷(キトウ)を行ない、民衆の現世利益の願いに応じたため、古くから民衆に親しまれていた。

平安時代の末ごろから、このような人や寺院で仏教を学んで野に下った仏教者も含め、総じて聖と呼ばれるようになった。

どうな、こなんして日本全国を得体の知れん遊行者が、村から村へ渡っとったらしいで。

その当時ゆうたら、世の中のことを知るチャンスもないし、狭い土地で生まれてその土地で死ぬだけの民衆がほとんどやった。

この時分の様子をこの本は詳しいに書いとるけん、これも写しとくな。

「一遍上人絵伝(1299)をみると、一遍は近畿、四国、中国、北陸、関東、東北をくまなく行脚したが、いけどもいけども至る所、荒涼とした原野が展開する。

人里は民家がまばらで、みな小さなあばら家であるが、町へ入ると壮麗な寺院や門をかまえた武家屋敷があり、農民の家とははっきり区別がつけられている。

一遍の行くところ必ず人が集まっているが、いたる所に物乞いしている乞食の姿、道端の筵で寝ているあばら骨の病人の姿がある。

飢餓、殺戮、疫病が日常茶飯事で、民衆はいつも死と隣り合わせで生きていたことがわかる。」

死んだり病気したりするんがなんでか原因が分からんと苦しんどる民衆に、聖が話す仏教の救いや極楽浄土や仏さん、それにえらいお坊さんの話は、夢みたいやったやろな。

そなんして別世界へのあこがれが、大衆の胸に刻み込まれていったんや。死ぬまでに一遍は、見たり逢うたりしてみたいわな。聖はそのお使いやゆうて、大事にされたみたいやで。

村へ来たら、VIP待遇や。

あら、又時間や。ほんだら、またな。

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