塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の十九 「武家社会から戦国、桃山時代まで」
おいでまい。えろう難しげな話になっとるけんど、我慢してな。ほな今日も続きを行くで。

歴史の教科書を見たら、奈良時代の律令制度は、朝廷が公田(コウデン)を支配し、班田(ハンデン)を分け与えて成立しとったゆうて書いとるな。

やがて公田を貴族が私田=荘園に取り込んで平安時代を迎えた。

その貴族も力が弱まると不安に怯えて仏の加護にすがり、大寺院へ荘園や領地をどんどん寄進していった。

そのあと武家集団が力を付けて、貴族や大寺院の荘園を強引に我がらの領地に換えていったげな。

承久(ジョウキュウ)の乱(1221)は、ほんな武家に対する貴族の反撃やったけんど失敗した。

ほしたら勝った幕府側は、荘園の切り崩しをもっと徹底的にやった。

その先頭に立ったんが地頭や。「泣く子と地頭には勝てん」ゆう公家や貴族の嘆きの言葉は、こん時にでけたんやな。

この時、広大な荘園で生きとった大寺院も真っ先に狙われて、地頭の侵略や荘民の年貢減免闘争に見舞われた。

それまでみたいに経済援助で頼みの綱やった貴族も落ちぶれて、助けてはくれなんだ。

財政難に見舞われて困った高野山の学侶方は、それまで蔑んでいた聖の勧進に頼るしかのうなった。

頼まれた高野聖たちは、喜び勇んで全国へ勧進の旅に出て、一紙半銭の布施を集めて猛烈に山へ運んだそうな。

そして室町時代、この時代に手工業は発達し、貨幣と商業も盛んになったげな。

現代日本の文化様式の基礎は、室町時代にでけたと言われとるで。

遠い沖縄の石垣島でも、古い屋敷は日本の室町時代の様式が伝わって、その名残としていまでも残っとるげなで。

経済の発展とゆうことになったら、これまでずっと学問しとった大寺院は強かった。

見とる間に経済の中心に進出して、商売の基本の「座」とゆうもんを支配してしもうた。

そして、関所をあっちゃこっちゃに作っては、関銭を取って儲けまくったんやと。

あちこちの寺社は、またまた強大になっていった。

こんな寺社の特権と横暴に立ち向こうたんが、天下統一の野望に燃える織田信長や。

信長は商業と輸送の邪魔になっとる座の独占や、関所の乱立を取り除く「楽市楽座」策を打ち出した。

手向かうもんは、それが神仏やっても大寺院やってもためらわん、片っ端から攻撃して焼き尽くした。

信長の攻戦で有名なんは、比叡山の焼き討ちと何千人もの斬り殺し、11年もかかった石山本願寺への攻撃やった。

こんな信長の後、天下統一を完成させた豊臣秀吉によって、関所の大半は消えたそうな。

熊野や伊勢にもようけ関所があって、参詣者は難儀しとったげなけんど、これで楽になった。

特に秀吉は、海の関所みたいな海賊を取り締まって、海路の便も良うしたんやと。

ここで、また山本和加子さんの本に戻るけんど、昔の旅をこなんゆうて書いとる。

「天皇や貴族の参詣の旅は、多数の供をひきつれ、自領の荘園から臨時に貢物を調達させ、傭人に運送させ、国人や荘宮の館を宿にして何日もかけてぜいたくな旅を重ねることができた。

修験や回国聖のきびしい修行の旅は、さすがにプロであるからとびぬけて健脚であり、嶽でも峰でもカモシカのように登ってしまうし、木の実を食べ、野宿も苦にしない。

しかし一般人の旅は大変な困難がつきまとう。山賊や海賊に襲われ命の危険にさらされる。」

ここで巡礼の旅の条件が書かれとるで。

「日本交通史家の新城常三氏によると、民衆が遠隔地へ参詣するためには最低必要条件があり、一つは旅宿の発達、一つは貨幣の流通、一つは陸上・海上交通の安全と発達、という三つの条件をあげている。」

こなんして16世紀の終わりごろ、秀吉が通貨の改革をして、重たい銅銭に代わって金貨、銀貨をつくった。

これで長旅にも荷物は少のうて済むようになった。

西国三十三観音霊場がでけたんもこのころらしい。

ほれから後になって、民衆の眼が海を渡って四国へ向けられはじめたそうな。

いよいよ時代は徳川政権で全国統一が受け継がれ、戦から解放されて産業の発展と庶民のエネルギーが爆発を迎えるようになった。

みんな動き始めるでぇ。

あら、また時間や。残念やけんど、ほんだら、またな。

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