塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の二 「巡礼の話・熊野詣(くまのもうで)」

お出(イ)でたんな。お待ちしとったで。こないだ(2004年7月2日)世界遺産に、高野山から吉野、熊野の古い巡礼の道が選ばれとりましたな。

四国遍路もそこから始まっとるらしいで。ほんだけん、今日は、巡礼の地の始まりを調べてみるでな。

人間ゆうもんは、不思議なもんやな。大昔からみんな食べもんと安住の地を捜して、山を越え、海を渡って旅をしとった。

それでええとこに住めたと思うたら、今度は何か強い力に憧れて、神さんや仏さんが住んどる山奥へ旅をする。

世界中で、この聖地を訪ねての巡礼は一杯あるそうや。

命を懸けてでも旅する人が、今も昔も後を絶たん。なんでやろか。
 
日本でもようけあるけんど、一番古いとこは、やっぱり和歌山県の熊野山地らしい。
なんでここが巡礼の始まりかと言うと、大昔から熊野や吉野いうたら紀(木)の国や言われるくらい大木が茂っとって、船を造る木材の産地やった。昔は、船は大事やったけんの。

それにここいらは、水銀や朱のもとになる辰砂(シンシャ)がようけ採れるところでのう、ほいでもって鉄造りの本場でもあったようや。鉄砲鍛冶で有名な根来(ネゴロ)衆も、ここや。

昔から武器の生産拠点やったかも知れんな。そやからここはいろんなもんを生み出してくれる恵みの土地で、いろんな神さんが住んどるいうて山全体が信仰されとったそうや。

そいで大昔、大和に朝廷がでける前から、古い日本人がいっぱい住んどって、そんで、古い神さんの拝み場所が、ようけあったんやろな。

おまはんら知らんやろけど、わしらのちんまい(小さい)頃は、日本中で家の周りは神さんだらけやったで。

井戸の神さん、カマドの神さん、田んぼの神さん、果ては便所の神さんや。
なんでや知らんけんど、どっちゃ向いても神さんだらけで、立小ん便するのもおとろし(怖ろし)かったくらいや。

そこへ大陸から渡来の弥生人が勢力を強めて、それまで住んどった古い日本人を支配していった。

そんで新しい名前の神さんを押し付けた。それからずっと後、六世紀に朝鮮から伝わってきた仏教の寺があちこちにでけた。坊さんは仏さんの浄土と信者を求めて、日本中の山へ分け入っとるな。

それからこれはもっと激しい修行をする山伏のような修験者が、吉野の山へ集まっとる。熊野や吉野の山は、奈良時代から平安時代、鎌倉時代には宗教のメッカみたいになったんやな。

そこへ都のえらいさんたちが、またようお参りしたそうな。

熊野古道たら言うのんは、その名残や。

それはそれは、えらい道やったそうな。お供のお公家さん(藤原定家)が泣きながら、後を付いて歩く日記も残っとる。

それでも皇族や貴族の偉いさんたちは、自分らのええ暮らしが長ごう続くことを願ごうて、険しい山を何ヶ月もかけてお参りしとるんや。

一番多かったんが後白河上皇たらいうお人の34回、後鳥羽上皇が28回やゆうて本に書いてある。その費用が大変で、なんでも白河法王はんの御幸(ギョウコウ)では、1日の食料費が16石2斗やった言うから、すごいもんやなぁ。

この食料に加えて馬や人夫を駆り出された地元の民(タミ)百姓は、泣くに泣けんかったやろな。「民疲れて、国滅びぬべし」言うて陰口たたかれたくらいや。

話しが長ごうなったんで、今日はいぬ(居ぬ=帰る)わな。又、お逢いましょうで。

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