塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の二十一 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読む@

ようお出でましたな。爺のはなし、退屈せんでか?

 おまはんらも、なんやらへんねし(変わり者)のひとりげなな。

まぁええで。

話し聴いてくれるんは、嬉しいで。ほしたら、ぼちぼち往くでか。

ここからは、いよいよ四国遍路の旅日記になるで。ほしたらまた、山本和加子先生の「四国遍路の民衆史」を読むわな。

「江戸時代以前は、その道のプロである修行僧の遍路が大部分を占めていたが、それがどのように行われていたか。

その手がかりとなる京都智積院の澄禅(チョウゼン)という僧の『四国辺路日記』をみていきたい。

遍路に出たのは承応(ジョウオウ)2(1653)年である。

承応2年という時期は、江戸幕府が成立して50年たったころで、幕府は成立したとはいえ、豊臣方の大名の処置、大名の配置、キリシタン弾圧、鎖国政策、貨幣制度、五街道の整備等々、統一政権の地固めに大わらわの時期であった。」

「承応(ジョウオウ)2(1653)年7月18日、澄禅は高野山の宝亀院から通行証をもらい、紀州和歌山に着き1泊し、船出を待ったが波高く、静まるのを待って24日に船出した。

小田原行人衆(顔見知りの小田原谷の元聖仲間らしい)10数人も同乗していた。阿波徳島の港に着き、城下町の持明院から廻り手形(入国許可証)をもらう。」

と、まあ、こなんなあんばいやけんど、これからが難行の始まりや。ところで、これから廻る寺に番号が付けられとるけんど、この時代にはまだ札所の番号は無かったげな。

山本先生が便宜上、付けてくれたもんと思うで。

四国八十八ヶ所ゆう呼び名の方だけは、この時分もうあったみたいやけんど、どの寺が何番かはずっと後の貞享四(1687)年、眞念という浪速の人がガイドブックを造るとき、具体的に決めたらしい。

ほんだけん、以前に書いたけんど、四国遍路は熊野詣での弟分で九十九王子のひとつ格下の八十八にしたという語呂合わせ説、なんや本気にしとうなるな。

あの時分は近畿中心の文化やったし、船便で阿波へ渡るんが普通で、その中継地が淡(阿波)路島やわな。ほんで1番寺が阿波から始まっとるのも、道理やで。

ほな、当時の遍路旅の苦しいんがよう判ると思うけん、山本先生の本をそのまま書き写すでな。

「霊山寺から初めて阿波北分十ケ寺を巡るべきだが、道が悪く井土(戸)寺(17番)から始めた。

つぎの観音寺(16番)は朽ちはて柱は傾いていた。

国分寺(15番)も常楽寺(14番)も小さな草堂であった。

一ノ宮(13番)は拝殿があり、札を納め念誦看経して、川を歩渡りして坂を二十余町(1町は109メートル)上ると阿波一国が見渡せた。
その晩は民家に一泊したが、民家の夫婦は情け深くて饗応慇懃(キョウオウインギン)であった。

翌朝向かった藤井寺(11番)は、3間四方の草堂で脇に朽ちた仏像が山と積まれ、住僧が仏像修理の勤行を求めたので少し奉加した。」

「阿波無双の難所である焼山寺(12番)に向かったが、山の峯は雲より高く、上りつめて峠の上に立ってみると、また先にもっと高い山がある。

谷へ下って少し休んで再び山を上りつめると、向こうの山に寺楼が見えた。

やれうれしやと思うと、寺との間にまた深い谷があり、道は谷の底に見えるというぐあいである。

飯を食べ、気をとり直して谷へ下り、三十町上って寺にたどりついたが、本堂は再興されて、御影(ミエ)堂もあった。

奥の院はさらに山の上にある。十人ばかり同行者があって、その中から引導の僧に白銀二銭出して先達になってもらい、山上を巡拝した。

下ってから焼山寺に泊まり、翌朝下山した。一ノ宮へ戻り、三里の間に二〜三十回も細川を渡って民家に泊まった。」

この時分の徳島市から鳴門一帯は吉野川河口の遊水池の氾濫地帯で、平地は潮の満ち引きが一杯やった。いまは板野郡ゆう地名やけんど、これは潮の野原のことや。

関東でも潮来(イタコ)ゆうやろ。潮野が板野になったらしいんや。

普通やったら和歌山から鳴門へ上陸するんやのに、澄禅はんは徳島市へ上陸したんやな。

あら、今日も時間や。次はこれから南へ下って、土佐へ行く旅や。ほしたらな。

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