塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の二十六 「四国霊場八十八ヶ寺を決めた真念さん」

澄禅さんの四国遍路の旅、どなんやったでか?

ほんまに真面目な修験の旅やったでな。

そんでも、江戸時代初めのこの時分ぐらいから世の中、旅行ブームが全国的に起こってきたげなな。

世の中が安気になってきた証拠や。

戦のない時代の到来や。

そやけんど、百姓や町人がそないに仕事をほったらかして旅に出る訳にはいかなんだ。

百姓には年貢を納める義務があって、土地に縛り付けられて土地を離れる許可はなかなか下りなんだ。ただ一つ、神や仏の信心のお参りだけには許可が下りたげな。

それで全国お参りのブームが起きたんやと。

そやけんど、旅に出るには「往来手形」ゆうんが要った。

この往来手形や「捨て往来」のことは、爺も興味があるけんまたゆっくり書かしてもらうでな。

さて、澄禅さんから40年くらい経って、真念たらゆう元聖(ヒジリ)らしいお坊さんが「四国邊路道指南(シコクヘンロミチシルベ)」とゆう本を出した。誰でもが四国へお参りでけるようにと書かれた、それはそれはようでけた道案内の資料やと。

この資料集めのために真念さんは、大阪から四国へ20数回も来たげな。ほんでから出したんが、この順拝のガイドブックや。

山本先生の言葉によると「真念が四国遍路を大衆向けにするために苦心したのは、第一に距離をもっと縮めること。
(それまで愛媛の大三島にある大山祇神社や金比羅宮などの神社までが札所に入っていたのを除いたり、奥の院もなるべくお参りのコースからとり除いたりした。)

道がなくて迂回する所は、道や橋をつけ、大河には渡し船をつけてもらう。

澄禅のころは四百八十八里あったというが、これで道程は三百四里に縮まることになった。」

ここで気になる澄禅さんの書いとられる道四百八十八里ゆうんが、どうも怪しげなで。

澄禅さんは河も四百八十八瀬、坂四百八十八坂ゆうて表現しとられる。

八十八ヶ所とおんなじ、数字の語呂合わせみたいやな。

ほんでも、真念さんが道順を整理して、短こうにしたんはほんまやわな。

ところが、これを勝手に道をこさえ(作っ)て、独善と売名行為でけしからんゆう評価をしとるお方もおるけん、世の中は複雑やで。

ほんだら、この真念さんはどなんげなお方やったんか、ちょびっと見てみるでな。

あれこれ資料を見たけんど、真念さんの生年月日はよう判らんのやと。

大阪の出らしいことは確かや。

元聖やゆうけん、正式な坊さんの位を持たん頭陀(ズダ)や抖(トソウ)の人みたいや。

衣食住を持たん無学で極貧の風来坊ゆうて表現する人もおられるで。

ところが、この真念さんは無茶苦茶お大師さんが好きでな、なにがあってもみんなにお参りして欲しい、そのためには遍路道をはっきりさせないかんゆうことから、苦労して四国八十八ヶ寺を決めてしもうたらしい。

ここのところを山本先生は、清浄観中宣という僧の言葉として、「真念は頭陀の人で、粗末な麻の衣がやっと肩にのっている姿で、托鉢で得る糧もままならぬ身であった。ただ弘法大師につかい奉らんと深く誓い、身を忘れ、苦をもいとわず、善行することを生き甲斐とした。」と書いとられる。

真念さんは大坂の寺島ゆう所に住んどったらしい。

大阪港の突端にあるいろんな川の合流する河口地帯で、木場や造船の場所やったらしい。

河口付近ゆうんは年中洪水や津波の危険があって、あんまし普通の人間の住むとこやなかった。

そんでもこれが縁となったんかどうかはよう判らんけんど、出版の費用を出してくれた大スポンサーに「野口氏木屋半右衛門」ゆう人の名前が出てくるで。

これから後の出版の出資者にも同業らしい木屋の名前がよう出てきとる。材木問屋かいな。

この時分に本を出すゆうんは、もの凄い金の掛かることで、乞食坊主同然の真念さんにはどなんしたって出来んことやった。

ほやけんど、真念さんの人柄と情熱がそうさせたんか、スポンサーが次々出てくるし、一番大事な版元に大坂北久太郎町心斎橋筋の版木屋・五郎右衛門がなってくれて、出版でけとる。

この本が売れると見込んだ版木屋・五郎右衛門も偉かったけんど、時代もそんなガイドブックを求めとったんやな。

50年間に20数回も四国へ入った真念さんは、ものすごうようけの記録を資料として作ったげな。寺から寺への道順や距離や、その札所の辺りには何の誰べえが宿を貸してくれる、みたいな案内や。

そんでわが(自分)が下書きをし、洪卓という高野山の僧に清書してもろて「四国邊路道指南」を出版した。

貞享4(1687)年11月やったらしい。ほやけんど真念さんは、この本だけでは何やしらんもの足りんで不満やったげなな。

そこのところを山本先生は「この本を出版しても真念は満足しなかった。案内に重点をおきすぎたため、寺々の霊験までは書きこめなかったからである。

大師の熱烈な信奉者である真念は、霊場の由緒や霊験、そして大師の功徳を書きたかった。」

 ここで大野正義さんというお方のホームページ「論考集・四国遍路特集」を参考にさせてもらいます。このお方も、よう勉強しとられるで。参考までにリンクさせて頂きますから、興味のあるお方は読んであげていた。

往来手形のことも詳しいんで、後で大野さんの記事を参考にさせてもらいます。

大野さんはこの「四国邊路道指南(ミチシルベ)」のことを「執筆者は眞念本人で彼の個性がよく出ている。知識人として見てもらいたくて、やたらに輸入外来語・漢語を多用し虚勢を張り背伸びしているのだ。現代のライター達の外来語・カタカナ多用の流行とそっくり同じで、笑ってしまうね。」と、評しとられます。

なんやしら、世間全般や雲の上の権威に一生懸命に立ち向こうとる、生真面目やけんどしたたかな真念さんの姿が目に浮かぶでな。

真念さんにしたら四国八十八ヶ所ゆうんやけん寺の数もきちっと八十八でなかったらいかん、そなん思い込んでの寺の確定に向こうたんやろ。

ほやけんど、うかうかしとったら、どなんお叱りが高野山から飛んでくるかも知れん。

気が気でないで。

ほれより、巡拝コースから外された寺は、もっと怒っとるでな。

そやけんか、続いてめんめ(自分)よりもっと知識のある人の筆で、四国の霊場記を書いて欲しいと思うたげなな。

ほんで四国を一緒に歩いた清浄観中宣というお坊さんに相談したところ、高野山の学僧寂本(ジャクホン)さんを紹介された。この寂本さんはその時分の凄い学僧で、こんまい時分から高野山に上り、宝光院の阿闍梨(アジャリ)から潅頂(カンジョウ)を受けた身分の高いお坊さんやったげな。

ここでまた山本先生や。

「真念は寂本の庵を訪れ、恐る恐る霊験記の執筆を依頼した。しかも自分が収集した資料の一切を提供したうえ、それでもたりなければ自分が何度でも現地へ取材に行きますから、と申し入れたのである。」

平身低頭しとる真念さんの姿が、目に浮かぶみたいやな。

ほやけんど、出版はどなんしたってやり遂げる、ゆう決意みたいなもんも感じられるでな。

あら、えらい時間が経ってしもた。今日はこの辺で止めとこ。続きは、またな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の二十七 「真念さんと寂本さん」を読む