塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の二十九 「北海道移民の大師信仰と巡礼」

広大無辺の大地に生きる讃岐の移民たちは、春になると抑えがたい郷愁に駆られてしもうたげな。

山本先生の文章では、

「彼らの耳底にチリンチリンと鈴(リン)の音がよぎる。なつかしい故郷の音だ。春のおとずれは讃岐の路を行く鈴の音から始まり、ゆかしい遍路の姿が菜の花畑や麦畑のなかにちらほら見えかくれする。」「郷里には弘法大師生誕の地、善通寺がある。見上げるほど高い五重の塔、ご誕生院、さらに回廊をいくと御影(ミエ)堂、その地下にある長くてまっくらな戒壇を怖る怖る歩いた子供のころの数々の思い出がはっきり浮かび上がってくる。」

ここからや。移民の衆が動き出したんは。感動的やで。

「そうした共通の思い出の中で、だれいうことなく、毎月二十一日、二、三軒の家族が集まって、弘法大師の祭壇を飾り、ご詠歌を唱えるようになってきた。

その集まりはだんだんひろがっていき、四、五里離れた隣家から十何里も離れた家の人たちまで、『うちも加えさせてくれ』と、十家族くらいが集まり、大師講が形づくられた。

定められた日に当番になった家では、袋をもって加入者の家を廻り、お米を湯呑み茶碗に一ばいずつ集めてくる。

そして当番の家に届けられている木箱の中の道具を出して祭壇をつくる。祭壇といっても仏壇用の敷物一枚、お大師様、十三仏様、お不動様の掛図と小さな鐘、お灯明台、お供物を乗せる華足(ケソ)二個、お経の本などである。

それらはささやかではあるが、開拓村にとっては最高の共有財産なのである。」 

「夕刻になり皆が集まるとお経をあげる。年輩の人がお経の本を開いて一節、一節鐘を打ち鳴らしながら読み上げ、一同大声でこれに唱和する。錫杖をもった弘法大師が、一人ひとりにいつくしむように愛の手をさしのべる感じがし、故郷の風が、故郷の匂いがよみがえってくる。みなその陶酔感にひたる。わけもなく涙が頬をつたわる。」「お経が終わるとお膳を出して夕食をともにする。どこの家でもたいてい献立はきまっている。豆腐、油揚げの汁、こんにゃくの白あえ、少し砂糖を加えた煮豆、大根とにんじんのなます、野菜の煮しめなどで、ご飯はこの日のためにとっておきの白米である。酒も少々いただき、家族たちはうちとけ合い、夜のふけるのも忘れて、世間話に花を咲かせるのである。」

引用が長ごうなってしもたな。ほんだけんど、ように判ってもらおう思うたら、文章を引かなしょうがない。

ほして、この雰囲気はよう判ったでしようが。

こっちゃまでが、涙が出そうになってきたで。

さぁ、こなんなったら、あっちゃこっちゃで講の輪は広まるでがな。

いろせな宗教の施設が造られた。みんな心の拠り所や。ほれと、こなんな理由もあったらしいで。

「北海道のお寺は、一部を除いて殆どが、明治の8年〜32年にかけて北海道開拓のため入植した屯田兵、又その方々を頼って入植した人達が、この大地に腰を据えた時、葬儀法事を司る僧侶と、その僧坊寺院の存在が必要となりそれぞれの出身地より伝(つて)により僧侶を呼び寄せた経過が有る。僧侶を呼び寄せる為には、居着いてもらう為にある程度の住居が必要であるし、又信仰の場所としても、寺院は集落の中心でなくてはならないため市街地の中心部に立っている。本州寺院のように山に又山裾にあることは少ない。(HP丸山寺の歴史より引用)」

こなんなると、みんなの心に浮かんでくるんが巡礼の夢や。

あっちゃこっちゃ廻りたい、これは一体何なんやろな?

世界中、ほとんどの宗教が独自の巡礼路を持っとるで。

沖縄でも仏教は根づかなんだけんど、先祖崇拝の御嶽(ウタキ)を巡る東御廻い(あがりうまーい)ゆうんがあるで。

もっとも沖縄のは、贅沢な士族の行列やったけどな。

ほしたところが、北海道にも大正の真念さんみたいな人が現れたんや。「北海道三十三観音霊場」をつくった人や。それも、女の人やで。

うわぁ、これから話を続けとったら、長ごうなってしまう。

話の続きは次にするわな。ほな、今日は早いけんどここまでにするで。

さいなら。

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