塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の三十四 「行き倒れの娘、無事帰る」

またお出でてくれたんやな。ありがとで。ほな行くでな。

山本先生の「四国遍路の民衆史」では、いろせなことが書いてあるけんど、これは珍しい話なんでご紹介します。時代は、天明7年(1787)9月末ゆうから、あの社会科で習ろうた天明の大飢饉の年や。

天明3年に始まった浅間山の噴火と冷害による米の不作、天候不順で餓死者がようけ出た。それに商人による米の買い占めがあって、とうとう天明7年に江戸や近畿一円で、打ち壊しが頻発してしもうた。その時代のことやけん驚くでな。

出雲国島根郡加賀浦岩地村の「しく」と「とよ」の2人の娘が遍路に出たげな。往来手形は1枚に2人連名で書いとる。天明7年9月17日の許可や。若い娘が2人、遠い四国へ旅立つとゆうんやけん、よっぽどの覚悟と金銭の用意があったんやろな。時は、天明の飢饉の真っ最中や。ただ、米の不作は近畿関東方面のことで、九州辺りはどっちゃかゆうと豊作気味やったそうな。

2人揃うて遍路を続けとったらしいけんど、年末頃、阿波の立江寺でなにがあったんか、とよが勝手にどっかへ行ってしもうた。喧嘩でもしたんか、誰ぞ悪い男に拐(カドワ)かされたんか、よう分からん。しょうがないけん、しくは独りで21番、22番の寺を参り、年が明けて天明8年の1月、阿波国那賀郡山口村(阿南市)にたどり着いた。ところが、そこでがいな(きつい)腹痛が起こって倒れてしもた。

疝気(センキ)ゆうて寄生虫の病気らしいけんど、親切な村人に助けられて医者にも診てもろうたんやと。そんでもようならんと、寝たままや。ほしたところが「何とぞお慈悲の上、国許へお送り戻し下され候様、願い奉り候」と村役人へ嘆願したげなで。

さあ、これから娘は村継ぎで故郷へ送り返されるんやけんど、ほら見事やで。世話人の苦労は、並大抵やないで。ほな、山本先生の本から、読んでみますわな。

「しかし困ったことに彼女の往来手形はとよとの同行に記載されているので、その手形では途中の村々でどんな咎めを受けるかわからない。村では郡役所にその旨申しのべたが、手形に合わせるためにとよの行方を捜さねばならなくなった。役所から町や村に手配が回ったが、行方はとうとうわからなかった。

山口村庄屋工藤新助、同村五人組孫兵衛・孫八・助右衛門・重助・与次左右衛門らは手形のほかに添え状をつけることにして役所の許可を得た。添え状には『女壱人ーー道筋村々にて心付けられ、食事又は行き暮れ候節は宿さし支えなきよう御手配なさるべく候ーー』とあり、山口村から阿波の国境大坂村までの『道筋庄屋衆』にあてた懇切なものだった。」

どうな、この気の配りようは。このとよを捜したりした手配に38日間かかっとる。その間、村役はずっと病気看病したげなで。ほんで、いよいよ出立の時2月19日、しくは青駄(アオダ・青竹を割いて編んで周りに柵を作った頑丈な担架)で村を出た。とゆうことは、最低2人以上は担ぎ手が要るでな。こなんして、阿波と讃岐の国境、大坂峠まで来た。この大坂峠ゆうんは、源義経も屋島の源平合戦に攻める時、阿波へ上陸してから一気に騎馬軍団で駆け上った、難所中の難所ゆわれる峠や。

「讃岐側の受取口の役人立会でここから丸亀まで讃岐の側の村々を継がれていく。丸亀に着いたときは三月になっていた。丸亀西平山の村役人次助は、病人を受けとると、すぐ対岸の備前国児島郡下村の村役人あてに送り状を送った。三月三日しくの青駄は丸亀を船出した。」

「備前ー美作ー伯耆と中国山脈の峠をいくつも越えて、伯耆(鳥取県)の米子に青駄が着いたのは三月十一日。町奉行所役人熊沢小八郎・伊丹十左衛門の二人はただちに差し紙をつけて、その日のうちにしくを出雲国松江藩吉佐村番所へ送り届けた。吉佐番所の取調べはすみ、しくは即刻村継ぎで加賀浦へ送られた。」
「天明八年三月十二日、しくはなつかしい故郷に戻ってきた。昨年九月末、故郷を出てからじつに五ヶ月ぶりであった。しかし同行のとよが行方不明になったこと、村継ぎで何か国、何十か郷、何百か村に世話をかけたこと等の理由から、藩の奉行所扱いになった。青駄にはたくさんの送り状や添え状がくくりつけてあった。それらの書状やしくの証言から、松江藩奉行所で作成された文書は『天明八年申三月十二日佐二兵衛娘青駄送り一巻』として、その分厚い写しが今日まで保存されてきたのである。」

どうな、こんなこと信じられるでか? 

ほんでも、ほんまにあったんやな。たった一人の娘のために、何百人もの役人や村人が親身になって世話をしとられる。山本先生も感嘆のことばを送っとられるで。

「藩と村が一体となり、一状の『往来手形』と多量の『送状』『添状』によって、長距離間の村継ぎという行為が行われたのである。そこに十八世紀日本のみごとな行政と保安体制の高さを見ることができる。しかし、義務感だけでこのような行為ができたであろうか。そこにはやはり遍路によせる同情とかぎりない慈愛がだれかれの胸にあり、形式にこだわる藩の役人までも動かして、臨機応変の処置までとらせたのである。」

ええ話でがなぁ。

世の中が大飢饉で混乱しとった時、たった一人の娘さんを助けて国許へ送り返すため、こんだけの善意が集まったんや。昔の日本人のええとこやな。 そやけんど、もし我がの土地で死なれたら、その費用はがいなことになるけん、みな必死になって村送りしたゆうたら、この美談は身も蓋ものうなるけん、それは止めとくでな。

さてと、ようけ歩いたけんど、これからどこへ行こうかのう。

ちょびっと考えてみるで。

おまはんらも、気ぃ付けて行きまいよ。

ほしたら、今日はこれでいぬ(去る)でな。
塩爺の讃岐遍路譚 其の三十五 「四国に溢れた乞食遍路、偽遍路」