塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の四 「巡礼の話・本地垂迹(ホンジスイジャク)」

こないだは、ごめんで。話しの途中で切ってしもうてからに。

ほな、続きを行くでか。

奈良仏教が盛んになった7世紀後半、こんどは山岳信仰が広まり、行者とか山伏の元祖みたいな伝説の人、役小角(エンノオヅヌ)が現れて、仙人みたいな活躍をした。空を飛んだり、病気を治したり、えらい神通力のひとや。

これが修験道ゆうて、吉野の山を本拠地に広まった。修験者は、山から山へ分け入って、超人的な修行をしたそうや。それで霊力を高めたんやな。

修験者の装束は四国遍路の装束によう似とるけんど、その話はもっと後で詳しいにするでな。

この修験者の元は、優姥塞(ウバソク)ゆうて正式なお坊さんではない、在家の信者が修行したんや。あの空海さんも若い時分、都の学問に行き詰まってから大学を飛び出して、突然この優姥塞になって四国の山奥へ走り込んだらしい。

空海さんと修験道は、切っても切れん関係をもっとるけんど、それは後で話すでな。

ほんでから私度僧(シドソウ)ゆうて、これも役所から正式な認可を受けてないお坊さんのことやけんど、その代表みたいな行基はんが民衆へ仏さんの布教に力を発揮したそうや。

それを初めに朝廷は仏教の権威を乱すとして行基はんを滅茶苦茶弾圧しとった。そいでも東大寺の大仏を造る時には民衆の協力がの(無)うてはどうにもならんで、ついに行基はんの力を借りて完成したんや。

話しがまたそれるけんど、この大仏さんを造る時、金のメッキをしたんや。

これでようけの者が死んどるんや。

水銀が鉄以外の金属はほとんど溶かすの、前に話したわな。実は金のメッキをするのは、金を水銀で溶かすんや。

この水銀とほかの金属の合金をアマルガムて云う。このアマルガムを銅像へ塗って炭火で温めるんや。

ほしたら水銀だけが蒸発して、金の膜が残る、これが古代のメッキやったけんど、蒸発した水銀を吸い込んだ作業員はみんな病気になって死んでしもた。いまの水俣病やわな。そら、毎日何千人の病人や。

ほいでも原因を誰も知らんから、作業は続いたらしいで。おとろしい話しやな。

こないして大仏殿まで建てたけんど、それでも民衆の心は完全には掴み切れなんだ。寺院仏教は繁盛したけんど、どうにも民衆の根深い信仰の神さんを越えられん。

そこで考え出された奥の手が本地垂迹(ホンジスイジャク)ゆう考えや。

そもそも仏教界ゆうのは理論にかけてはそら勉強しとるで。そやからインドに始まって中国、朝鮮と生き抜いて、日本にまで伝わってきとんのや。偉い坊さんたちが集まって、どうにも勝てん神さんに対して編み出したんが、「本地垂迹」いうて、本地は元々のもの、垂迹ゆうたら仮のもんゆう考え方やった。それは、おまはんらが大事にしとる神さんいうのは、ほんまは仏さんが仮の姿になっとるだけやで、みんなほんまは仏さんやで。こない言うて、神さんの乗っ取りにかかったんや。

ほしたらこれが、見事に成功した。これには、神さんの側からもすり寄っていった気配があるで。そら朝廷が庇護する仏教に逆ろうたら、神さんの首が飛ぶ時代やったもんな。

そんでもこれは、よう考えてみたらジャンケンの後出しみたいなもんで、これまで神さんがなんぼえばっとっても勝てんわな。なにをしても、後からそれは仏さんの仮の姿や言うて名前を変えられるんやから。これを神仏習合や言う。

明治の時代まで、この考えは続いたんやな。このへんから何でも有りの不思議な日本の信仰は始まっとると思うけんど、どうやろか。

これで今でも、お寺と神社が仲良う居とる意味が分かったやろでが。神宮寺たらゆう奇妙な寺がある意味も、これで分かるわな。

あら、また時間や。ほな続きはまたにするで。

塩爺の讃岐遍路譚  其の五 続・巡礼の話・本地垂迹(ホンジスイジャク)」