塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 番外編 「空海と最澄と理趣釈経」

いつも爺の話を聴いてくれて、ありがとで。

それにメールで激励されたりしたら、もう嬉しいて感激やわ。ほしたところ「しんゆ」さんというお方から、最澄さんと空海さんがモメたあたりを塩爺の語り口で聴きたいゆう希望がありましてな。

正直ゆうたら爺もあんまりややこしいんで手を抜いとったんやけんど、やっぱし気になっとりました。

ほんなことやけん、もうちょびっとだけ調べてみよでか? 

うまげに書けるかどうか心配やけんど、まいっぺんだけ付き合うていた。ご免やで。

最澄さんは、若いのに還学生(ゲンガクショウ)として、仏教界の代表みたいな身分で唐の国へ行った。

桓武天皇にそれはそれは高こう評価されとった。

天台宗の教えもちゃんと唐で習得して、時間が余ったついでに密教も帰る途中で勉強して、得意満面で戻ってきた。

これが悪かった。

さぁ、天台宗を本格的に広めようとしたら、桓武天皇は密教の呪術的な神秘力に強い興味を示された。最澄さんが持って帰った教典の目録「将来目録」に、密教の名前があって、それが宮中の偉いさん等に注目されてしもうたんやな。

最澄さんも、なまじ密教を囓(カジ)ったばっかりに、後に引けんようになったげな。

そのうち桓武天皇は強引に最澄さんを密教の指導者とし、あろうことか奈良の旧仏教界の長老たちに灌頂を受けさせる命令まで出した。

桓武さんは、古い権力にあぐらをかいとる奈良仏教界を煙たがっとったんや。

しぶしぶ灌頂を受けさせられる長老たちは、内心怒っとった。

最澄さんもしょうこと(仕方)なしに、それを実行してしもうた。

逆らえんかったんやな。

それに最澄さんにとって密教は、数ある教典の中のひとつで、本来は天台宗が一番大事やと思うとったげな。

悪うても天台と密教は同格やと考えたげな。

そやから軽々と密教の行法をこなし、しまいに勅命で桓武の灌頂までしてしもうた。こうなったら国師やで。

そのうち桓武天皇が体調を崩したけん、祈祷をしたりしたけんど、ついに崩御された。

一番の庇護者に亡くなられたら、さぁ、風当たりが強うなった。

これまで押さえ込まれとった奈良の長老連中からの反撃も凄まじい。

次の平城(ヘイゼイ)天皇は桓武天皇ほど味方にはなってくれなんだ。

最澄さんはしょうことなしに、真正面から奈良仏教界と論争せないかんようになったんや。

そこへ空海さんが戻ってきた。

ほしたら眼をむくみたいな教典の数々を「御請来目録」として朝廷へ差し出した。

ほんで、密教とはどんなもんで、正当な密教は不空、恵果という嫡(チャク)流の伝道者から直接面授されなんだらいかんもんや、ゆうて書いとる。

ここを司馬遼太郎さんによると、「真言密教の要諦を簡潔に説き、かつ、いままでの顕教(天台宗をもふくめて)とはくらべものにならぬほどの大法であることを述べている。

さらに、恵果のことものべた。もし、宮廷の大官でこの文章をみて昂奮しない者がいるとすれば、狂人か、よほど鈍感な者であろうかと思える。」やと。

これには最澄さんもびっくりしたやろな。

前の敵と戦こうとる最中に、背中から大砲をぶち込まれたみたいなもんや。不安定な足場で立つのもやっとの思いやのに、その一番弱点の密教に砲弾が当たったんやけん。

おまけに相手は太宰府で、よう知らん留学生(ルガクショウ)や。

うわさ話くらいは知っとったか知れんけどな。

どっちゃにしても敵の姿がよう見えんのに、強烈な弾だけが飛んでくる。これには参った。

空海さんは直ぐには都へ上らんと、弾だけ撃ち続けた。

無名の留学生が、一躍都で注目の的になった。

これは、入唐してもすぐ恵果和尚を訪ねんと、西安の名士連中を書と詩文で熱狂させて名声を高め、和尚に首を長ごうして待たせたあのやり方と同じやと、これは司馬さんの受け売りや。

そのうち上京の命令が出て、畿内に入るけんどまだ京へは入らん。

和泉の槙尾山寺(マキノオサンジ)で時間を稼いどるみたいや。

その間にも、最澄さんは空海さんが朝廷へ献上した「御請来目録」を見ては、悩んだと思うで。

自分の知らん密教の教典がなんぼでもある。

サンスクリットの本もある。

根が真面目なだけに、どなんちゃならん。頭を下げてでも教典を借りるしかない。

空海さんがそのうち京の高雄山寺へ入り、平城上皇と嵯峨天皇の確執、薬子の乱を上手にやり過ごした後、勝者の嵯峨天皇へ護国の護摩焚きを願い出たりしとる。

これを嵯峨天皇が認めたんやから、もうその時分(ジブン)、空海さんは天皇に認められとった証拠やな。

天皇に認められるゆうことが、どんだけもの凄いことか、想像もつかんでな。

普通は五位以上の身分でなかったら、宮中には入れなんだ時代や。

それやのに鮮やかに、それを実現してしもとる。

もっとも僧侶や白拍子は法外の身分で、例外的に天皇に会えたらしいけどな。

当代きっての書の達人で、詩文にも長けとった嵯峨天皇を、それを上回る書と詩文で接近したんは、やっぱし阿刀叔父さんの情報と助言もあったんやろな。

嵯峨天皇は文人仲間か文化サロンみたいな調子で、空海さんと当時の近代都市・唐の話をしたかったげなで。これも司馬さんの説や。

最澄さんは立場上、密教をどなんしたって会得したかった。

ただ、天台と密教を並べて理解しょうとしたんが間違いや。

相手はなんでも包み込んでしまう、包摂(ホウセツ)の空海さんやった。

論争では勝負にならん。

哀れなぐらい頭を下げて、空海さんに書物を借りとる。そんでも頭がよかったんやな、次々理解が深まっとる。

そないなると空海さんは気分が悪うなる。

ほんまは、密教ゆうもんは文字から入るんではのうて、所作や印形の修行から入らないかん。

梵語の原典の理解も要るし、師に直接伝授されるもんや。

そやから、比叡山から出て、こっちゃへ来なさいと言い出した。7つ年上の最澄さんは、言われるままに出かけとる。

そやけんど、天台の経営も忙しい。

空海さんから見たら、天台がどなんした、もっとおっきょい(大きい)教えが密教や。

その覚悟で来んかい、とゆう思いやった。文字だけで理解するんを、密教では「越三昧耶(オツサンマヤ)」ゆうて憎み嫌ろうとった。

そやけんど、最澄さんにとっては、天台も大事や。

後回しにはでけん。

その違いやな。

時間のない最澄さんは、何人かの弟子を残して、自分は山へ帰ってしもた。

この弟子の中に泰範(タイハン)ゆう人がおった。

よっぽど可愛がっとったんか、最澄さんは泰範に帰山を何遍も促しとる。

ほやけんど、密教にのめり込んだ泰範は、師の度重なる懇願を断った。

ほしたら最澄さんは「法華一乗と真言一乗とは何ぞ優劣あらん」、法華経も真言密教も変わらんのやけん、早よう帰って一緒に修行しようと書いてしもうた。

これを読んだ空海さんは激怒して、ぼろくそに反論した。

これで最澄さんと決定的な考えの違いが表面に出て、それきり疎遠になっとる。

最後に、密教で一番むつかしい理趣経が出てきた。

これを知らな話にならん。

この世の根本が書かれとるげな。男女の咬合が菩薩の位やゆうんや。

これが判らんから、「理趣釈経」たらゆうもんを貸してくれと申し入れた。

ここでも最澄さんは、割と気楽に申し入れとる。

ほしたところが、これにも空海さんは噛みついた。

それだけはでけん。

解釈を間違ごうたら、密教そのもんが誤解されて怪しまれる。それこそ修行が要るもんや、ゆうて断っとる。

こないして、空海さんと最澄さんの付き合いは終わったげなで。

このいきさつから後の人たちは、腰の低い最澄さんを真面目で善良なお方、それに比べて空海さんは傲慢で意地悪いお人やいうイメージで見るようになったげなけんど、ほんまはどうやろうか?

おまはんらは、どなん思うで? 

えらい長ごうなってしもたけんど、これで空海さんと最澄さんとの関係を終わるでな。「しんゆ」さん、こんなんで宜しかったですか?

ほんまにこれで空海さんの話は終わるで。

どなたはんも、付き合うてくれて有り難うさんでした。これからも、もうちょびっと旅を続けるけん、付いて来ていたよ。

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