塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の十七 「空海さんの話(まとめ)」

空海さんだけは、なんぼ話しても話しが尽きんでな。

空と海、こんだけの意味を込めた名前を考えるだけでも、スケールが違うと思う。

ほんまに宇宙的や。

ほんならここで、空海さんの説く真言密教について、素人やけんど調べてみるで。

むつかしいことは本職のお坊さんに任せることにして、素人にも分かるようにみてみるで。

ほいでも四国遍路がどの宗旨でも受け入れて、いつまでも続いとる意味は判るような気がします。

密教ゆう言葉に対して、顕教ゆう言葉がありますな。顕教とは釈尊の教えをだいじに説くもんやいわれています。

それに対して密教は、顕教も含む宇宙真理を人格化した大日如来の説法やとゆうんや。

別のことばでゆうたら、顕教は小乗(上座部)仏教で、密教は大乗仏教ゆうことになる。

ここで思い出すんは、本地垂迹(ホンジスイジャク)の考えやな。なんとのうよう似とるで。

小乗(上座部)から見たら、大乗は釈尊の教えからはみ出しとるけん純粋の仏教や無いゆうけんど、大乗は小乗がなにをゆうてもおまはんらみんなわしの仲間やで、そないゆうて包み込んでしもうとる。

松長有慶さんの「真言密教の教えと歴史」から見ると
「顕教は、釈尊の悟りの内容を、文字とか言葉とかいった間接的な方法をもって伝え、本質的なものを解き明かしていないのにたいして、密教では真理にじかにふれ、直接われわれに悟りの内容が伝えられるという。(略)空海によって、このように密教は明確に定義づけられ、それまでの仏教の流れのなかで、その特色が鮮明にされた。密教を顕教と対立関係におき、その独自性が問題とされたのは、不空と恵果の流れをくむ空海にはじまる。」

いま、密教がなんでも包み込んでしまうゆうたけんど、これを包摂(ホウセツ)とゆうそうなで。

「お経の中に医学、薬学、数学、天文学などの自然科学に類するものまで包み込んでいます。」やと。この包摂のあと純化とゆう仏教化の整理がされるらしい。

これを別の言い方すると、何でも取り入れる包摂の段階を初期の雑密(ゾウミツ)ゆうて奈良時代の現世利益が中心の教え。

それを仏教的・思想的な面を入れて組織化し、大日教と金剛頂教という二つの経典によって完成したのが平安時代の純密やと。純密になると、現世利益より成仏が中心になる。

成仏とは死ぬことではのうて、精神的な完成の意味やそうな。

ところで、空海さんは若い時分から優婆塞(ウバソク)になって山野を跋渉しとったけんど、この日本古来の山岳信仰の修行が土台になって高野山の開創が生まれ、自然崇拝的真言密教が組織されたみたいやな。

ほして山伏といわれる修験者がこれを受け止めて、熊野詣や四国遍路みたいな巡拝の基礎がでけたらしい。

高野山開創に朝廷の財力を借りんと、先住の民みたいな山住み(伝説では丹生姓=鉱山業)の人たちの資金援助に頼ったけん、修験者との深いつながりがでけたと思うで。

ほんまは空海さん自身が自然と一体化する修行の旅にもっともっと出たかったんやと思うけんど、晩年は仕事が多すぎてでけとらん。そやから、四国遍路の道中は、南無大師遍照金剛ゆうてお参りするのが、せめてもの空海さんへの供養やといわれとる。これがほんまの同行二人かな。

そうそう、空海さんのことをお大師さんと普通ゆうとるけんど、これは弘法大師のことやな。

この大師号ゆうんは、「大導師」「大師範」の意味で、本来は「国や帝王の師となるべきもの」という意味で使われた言葉やそうな。

学徳の優れた高僧に対する敬称で、後に高僧没後に朝廷から贈られる名前「諡号」(シゴウ)として用いられようになったんやと。

日本では清和(セイワ)天皇の貞観8年(866)に、天台宗の最澄(767-822)に伝教大師、円仁に自覚大師の号が送られたのが最初やと言われとります。

その後、空海さんにも弘法大師号が贈られたけんど、それは死後90年ちかく経った醍醐天皇の延喜21年(921)のことやそうな。

大師号は平成の今日まで25人おられるけんど、お大師さんゆうたらなんでか弘法さんになってしもうとるな。ほんだけ民衆に慕われとるんですわ。

空海さんが偉いんは、仏教がどっちゃかというと国家や貴族のためばっかりやったもんを、庶民の慈善事業や教化活動に結び付けたことやと言われとる。民衆救済を国家規模で実行したんは、やっぱり空海さんが初めてやそうな。

国家を突き抜けて人間中心の考えになる、これは明治の宮武外骨に繋がることはこのお話の最初にゆうたけんど、讃岐の人間として二人とも自慢でけることですわ。

「天長9年(832)空海59歳のとき病魔にみまわれ、高野山において、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きれば、我が願いも尽きん。―『この大空がなくなり、迷える衆生がなくなり、全世界の人々が平和な仏の世界に遊ぶまで、我が救済利民の誓願は永遠に捨てません』と願文を書いた。

そして空海は3年後の承和(ジョウワ)2年(835)、62歳で高野山において入定した。入定とは肉身を永遠に留め、やがて弥勒如来とともに救世者になることをいう。


空海は死なずに仏になって(即身成仏)衆生を救うのである。

それが弘法大師が日本列島をくまなく歩き、様々な奇跡を残す伝説に発展していく。」と「四国遍路の民衆史」で山本和加子さんは書かれとります。

ほしたらこれで、空海さんのことは終るで。やれやれですわ。

次からは、中世以降の世の中の変化と四国遍路の歴史を調べてみるでな。

塩爺の讃岐遍路譚 番外編 「空海と最澄と理趣釈経」を読む