塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の三十三 「行き倒れの始末」

ご機嫌さん。

ようお出でてくれたな。ほな今日も行くでか。

こないだからお接待ゆうんがなんやしらんけんど、善意のかたまりみたいに言われとるけんど、みんながみんなそうでも無かったゆう説もあるで。

田舎の貧乏な村に住んどって、入れ替わり立ち替わり素性の判らん遍路者に軒先へ立たれたら、ほらええかげんウンザリするでがだ。

ゆとりの無い家は「お遍路お断り」ゆうて立ち退いてもらうんやけんど、恨めしげな顔して睨まれたら後味が悪いし、かとゆうて施しが出来る余裕もないし、それはそれで辛いもんやった。

ここんところを上手いこと表現してくれとるホームページがあったんで、これまた無断引用させて貰います。前にも一ぺん参考にさしてもろうた、大野正義さんというお方のホームページ「論考集・四国遍路特集」です。よう調べられとるで。

大野さんはお接待の行為に「憐憫・施し・厄介払い・代償行為」の性格が秘められとると言われとります。すまんけんど、文章をお借りします。

「この世の不幸は、誰かが引き受けねばなりません。ひょっとしたら自分に降りかかったかも知れない不幸をこの巡礼さんが引き受けてくれている、『お気の毒に、この人は私の代わりに不幸になった人だ、すまない』という気持ちがあるからこそ、四国の老人はお遍路さんに対し両手を合わせて拝むのです。拝む行為には、尊敬の念と共に、敬遠・厄介払いの思いもチラリと見えます。ようするに治安対策の要素です。敬って遠ざけるとは、言い得て妙ですね。
四国以外の地域でも終戦後の時代迄は、かなりの貧乏人が、巡礼や乞食さん・門付け芸人等々には少し許かりの『施し、お接待』をして来たのが日本の伝統文化なのです。施す側には、ある種の差別意識がありますが、だからこそその謝罪行為として施しがあった、と言っても過言では無いでしょう。でも、自分は貴方のように不幸にはなりたくない、巡礼である貴方はその不幸を背負った気の毒な人だ、お詫びの気持ちです、拝みます、おとなしく、災いをもたらすことなく、この施しを受け取り立ち去って下さい。そのような構図と言えます。」

この施しを受け取り立ち去って欲しいと思うとっても、なかに倒れる人も出るわな。

さぁ、ほれからが大変でがぁ。ここからは、例によって山本先生の文章に戻るで。

「遍路に出る人が多くなると、いきおい病で倒れる人も多くなる。何しろ数十日歩きつづける旅であるので、どうしても事故が起る。慢性的な栄養失調と過労から抵抗力が弱まり、よけい病に犯されやすい。」
「沿道の村むらでは、これらの行き倒れ遍路をみかけたら、庄屋か村役人に届けて近くの民家か小屋に寝かせ、当地の五人組の者が粥(カユ)や飯を与えて介抱したのであるが、なかには病者のために特別な小屋を設けていた所もある。費用は村で負担した。村方文書には『病人遍路小屋掛』『病気遍路小屋掛作料』『病気遍路米飯代』と書かれたものが、遍路沿道村で多く残されている」

この費用については後で書くけんど、ほらもの凄いで。

そこで大野さんは、傑作な古川柳を紹介されとる。

六部ゆうたら、全国を回遊しとった坊さんでもあり、乞食の代名詞でもあったで。

その六部が村境で死んだ。

頭がどっちゃや、躯の半分以上がそっちゃやゆうて村役同士の押し付け合いやけんど、これ笑えんでな。

「死んだまま六部を置いて境論」(『誹風柳多留』十五篇)。 

大野さん、ほんまにすみませんでした。

この費用がどんだけやったんか、山本先生の本へ戻るでな。

「天保二年(一八三一)十二月十六日、越前からきた亀吉という遍路が、土佐の橘村(高知県幡多郡佐賀村)にきて病気になり、村で養生させたが、五日後の二十一日に死亡した。その費用は、十六日の朝から二十二日の晩まで養生人昼夜二人ずつあてて人夫十四人。死後二十二日から二十五日まで、中村町の大庄屋に連絡と検分のため九人出動して、計二十三人がかかわった。扶持米四斗六升分をふくめて銀四十匁二厘と、医者の薬代銀一匁七分八厘、合計銀四十一匁八分かかった。

一村でこれだけの金額はまかないきれず、郡役所の計らいで、窪川より下山郷までの遍路みち沿いの村二十一ヶ村に、各村二分ずつ橘村に払うよう大庄屋に命じさせて、一件落着となった。」

どないで?

これが四国遍路の歴史や。

遍路道の沿道に、遍路墓がるいるいと続いとったらしい。

その墓があるとゆうんは、土地の人たちが親切に手厚く葬ってくれた名残りやわな。

ほしたら次は、遍路途中で病気になった娘さんを、無事に国許まで送り届けた記録があるけん、それを紹介します。天明7年(1787)のことらしいで。

ほな気ぃ付けて行きまいよ。

塩爺の讃岐遍路譚  其の三十四 「行き倒れの娘、無事帰る」を読む