塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の三十六 「あてどのない遍路旅」

さあ、今日も行くでか。いつもみたいに山本先生の「四国遍路の民衆史」や。

 「西国地方は江戸初期から、高度な農業、高度な漁業技術、特産物の量産化、航海技術の発達とそのシステム化等々、どれをとっても資源と技術に恵まれた、日本で最高の技術先進諸国である。それらはすべて多数の人力で支えられていた。」と山本先生は書かれとります。

 木綿や菜種油で栄えた畿内は、淡路や四国から人を雇い、灘の酒造りは丹波からの杜氏集団が占め、西ノ宮地方の油絞りや瀬戸内の塩田は、多くの人手を要したげな。ほやけんど、「どんなに生産がのび利益があがっても、労働者の賃金は絶対にあがらなかった。儲かった分は藩・経営者・仲買人・城下町や在郷町の問屋商人・廻送問屋・大坂商人の間で分配された」そうな。

 「ところが、江戸中期、宝暦、明和ごろからどの産業もしだいに生産過剰気味となってきた」。これまで後進地やった地元関東にも、いろせな商品が作られるようになってきた。これを「関東の地廻り物」の台頭やゆうらしい。

 生産過剰のトラブルは、製塩業から起こったらしいで。「休浜(ヤスミハマ)法」ゆう生産調整が考案された。日の長い夏場だけとか、1日おきにきつい労働を強いる方法らしい。宝暦13年(1763)からやと。それで労働争議が起こったげなけんど、これは省略するでな。

 結論をゆうたら、身分制度の軋轢(アツレキ)で争いが起こっても、支配者は守られて、処罰されたんは搾取と過労に苦しむ働き手やった。その虐待から逃げる者を「走り者」ゆうたげな。捕らえられたら、目も当てられんお仕置きや。

 こなんして守られた富裕者や商人は、生活に喘ぐ庶民から目を背け、できることなら路頭に迷う貧民に徘徊されず、町や村から出ていってもらいたいといわんばかりやったらしい。「貧しい山村からの出稼ぎ人の彼らには、もう帰る故郷とてないのである。彼らは再びどこへ出て行ったらいいのか・・・・失業した彼らの行きつく先は、けっきょく四国遍路であった。」と山本先生は書いとられます。

 こなんして「故郷を追われて四国に来た乞食遍路は、たとえ六十日かけて八十八か所一周しても、帰る所がない。巡拝が目的でなく、接待にありついて四国の道を歩きつづけなければならない。霊場である寺はもともと遍路の宿泊をみとめなかった。寺には講で来た集団の遍路たちがひと晩じゅう祈祷する通夜堂があるが、寺側は本堂・大師堂での通夜を許さなかった。遍路に宿を貸さない寺であるから、ましてや乞食遍路が境内や堂内に泊まることを厳禁した。」(四国遍路民衆史・さまざまなる遍路たち)

「春や秋の遍路の季節には、ふつうの遍路より早く起きて接待にありつけば何とか過ごせたが、冬になると沿道の接待もなくなり、また寒さをしのぐすべもなかった。これらの乞食遍路は十一月の末ごろから二月ごろまで、四国でも比較的暖かい土佐湾をのぞむ海岸、三十二番から三十四番までの遍路みち沿いで過ごした。」(四国遍路民衆史・さまざまなる遍路たち)

 この後も引用が長ごうなるけんど、実感が味わえる描写やけん堪(コラ)えていたな。

「室戸岬の二十四番、二十五番の間の岩窟は、一年じゅう霜を見ずに暮らせた。接待で貰った米を袋に入れ、海辺の砂を掘り、そこに袋を入れて少し砂をかぶせ、さらにその上でたき火をして、唯一の料理用具の鍋に野菜を入れて煮ると、下の米まで塩水がまざった飯が炊けて、飢えがしのげる。

 春になると土佐を出る。土佐は冬以外は雨が多く、一年の三百日は雨といわれるくらいよく降る。土佐から伊予や讃岐に向かう。今治あたりはにぎやかな町で、接待講の人びとが海の向こうからやってくる。十月になると阿波へいく。十一月になるとまた土佐に入るというぐあいである。」

 21世紀のいまでも四国のホームレスの中には、この季節移動をして凌いどるグループがあるで。貧しげな放浪者に生活保護の声かけをしても、覚悟のうえの旅やけん生活保護は受けん、ときっぱり断られたことがある。たいしたもんでが。

 ほして山本先生は、こなんな言葉でこの章を終えておられます。
「往来手形も持たず、路銀も持たず、その上病を背負った人たちが、『夥しく四国遍路に参り候』ということになった。四国の民衆はすべてこのような人たちを受け入れたのである。もし四国に八十八ヶ所がなかったら、接待がなかったら、彼らはいったいどこへ行っただろうーー。」

 寂しい話になってしもぅたな。次回は元気なおまいり、「走り遍路」について書いてみるでな。ほしたら、また、ぼちぼち歩くでか。「よっこらしょ!」っと。

 
塩爺の讃岐遍路譚 次回 其の三十七 「「走り遍路」をお楽しみに!!