塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚  其の三十八 遍路譚の道草「お伊勢参り」① 

長いこと中断しとりました。

お久し振りやな~! えらいこと留守してしもて、ご免でよ。

しばらく爺がお(居)らん間に、世の中まんで(まるで)変わってしもうとるな。新型コロナたら言うもんが流行って、世の中暗うなってしもうとる。これではお四国参りもおちおちでけんでな。ほんなことやけん、今日は明るいお参りの話に道草食ってみましょうで。

はやり病言うたら、日本のはやり病の起こりは、大陸から船に乗って天然痘がきたと、日本書紀に書かれとるそうな。奈良、飛鳥時代のことや。おとろ(怖ろ)しかったやろうな。いきなりバタバタ高い熱出していろせな人が死んでいくんやけん。身分の高い低い関係ない。生き残っても、後はおとろしい痘痕(あばた)の傷跡が残る。

その後マラリヤも流行ったげなけんど、これは平清盛が有名なだけで、大流行までにはなっとらん。その他に、はしかやコレラ、赤痢がある。スペイン風邪もあるな。

今度のコロナも風邪の一種位に思うとったけんど、これがえらい違ごとって、新種のウイルスやと。お遍路参りも出来んようになってしもうとる。しょうがない。今は我慢のときや。
 
ほんで、今日は前にも書いとったけんど、目をむくような面白いお参りの話、底抜けに明るいお伊勢参りのことを書くでな。四国遍路からちょびっと離れるけんど、日本最大のお参りの話や。どなたさんも、堪(こら)えていた。これで気晴らしにしてな。
 
はな、行きましょか!

「お伊勢参り」① はじめに

今日もええ日和(ヒヨリ)で、よござんしたな。遍路話も長ごう続いとるけん、ひとつここらで道草喰うて江戸時代の「お伊勢参り」を見てみるでか。観音霊場の巡礼やお四国さんの遍路の旅とはまたちょっと違ごうて、日本人の信心の心の奥を知るんにええ材料かも知れんでがだ。そん中でも、おかげ参りとか「ええじゃないか」参りは有名やし、ほんまにもの凄いんで、この道草の最後にご紹介さしてもらうでな。

日本のお参りの規模でゆうたら、このお伊勢参りが一番大っきょいんでないんな。ほしたら今回はNHKの出版物「知るを楽しむ・お伊勢参りニッポン観光事始め・金森敦子」さん(以下NHK出版)を参考にさせてもらうけんど、勝手な引用をどなたさんも、ごめんでよ。

そもそも、お伊勢さんは天皇家の先祖とされる天照大神を祀(マツ)る内宮(ナイクウ)と五穀の豊穣を司る豊受大神(トヨウケノオオカミ)を祀る外宮(ゲクウ)のふたつが合わさって伊勢神宮となっとるそうや。普通全国の神さんは延喜式たらゆう平安中期に決められた法典で、人間みたいに一位、二位ゆう格付けをされとるけんど、お伊勢さんだけは別格でなんちゃ位なしや。天皇さんに名字がないんと一緒かいな。

ほしたらこの伊勢神宮がいつ頃からでけたかゆうたら、これは古代史の中でもように判らんげな。大和朝廷がでけた頃には、その原型はあったげなで。それを天皇家の先祖を祀る場所にしてしもうたんやというんが定説や。

そのお伊勢さんも平安時代までは、広い神領からあがる年貢で安泰やった。その神領が貴族同士の戦乱で荒らされて、年貢が思うように入らんようになった。ほんでから平安貴族が自分らの安泰を祈祷してようけの寄付をしとったんが、その貴族も没落してしもうてから寄付も満足に集まらんようになった。こなんなったら神社でも、どなんしたって別の収入源を考えないかんわな。幸いなことに室町中期になったら一般庶民が経済力を付けてきて、貴族に代わっておまいりをするようになったげな。熊野詣の盛況を見て、お伊勢さんの運営者は、収入源をここに目を付けたんやな。ここで活躍したんが、御師(オンシ)の力や。御師(オンシ)とゆうたら、正式には権の禰宜(ゴンノネギ)ゆう神官やった。権は補佐の意味やけん、禰宜の補佐になるんかいな。
 

ほたらいよいよ、NHK出版の本から引用さしてもらうで。
「彼ら(御師)は全国津々浦々まで出向き、庶民に対して伊勢の神の有り難さを説いたのです。特に外宮(ゲクウ)の御師たちの精力的な活動には目を見張るものがありました。農民は天照大神は太陽神、豊受大神は農業神と受け止めたので、外宮だけでなく、内宮(ナイクウ)の『皇大神宮』の御札も望みました。(略)新しく開拓された村に、伊勢とつながりの深い神明社が産土神(ウブスナカミ)として祭られていることが多いのも、こうした御師の活躍を物語っています。」

ここが大事なことで、これが後の世のおかげ参りの要因になると思うで。
「御師たちは信者に代わって伊勢で祈祷したしるしとしてお祓い札(大麻・タイマ)をくばり、信者はお礼として初穂を納めました。初穂は新しく実った稲の穂をいいますが、普通は金銭を差し出しました。全国の七~八割近くの家の神棚には、『天照皇大神宮』や『豊受大神宮』といった伊勢の御札が納められたといいますから、初穂の利益は莫大なものでした。」

全国の八割やで。八割ゆうたら、山奥や離島を除けたらほとんど全部やわな。ほないゆうたら、21世紀の今でも正月になったら、どこからか判らんけんど、ほうぼうの家へ一冊の伊勢暦と御札が郵便受けに届いとるで。ここが日本の国の不思議なとこや。ちょっと前までは、子供が生まれたらどの家も近くの神社へお参りするし、何の考えも無しに何時の間にやら氏子になって村の祭りに参加しとった。これが日本人の昔からのしきたりで、今ではDNAみたいや。

こなんして、伊勢の神さんの有り難いことを説きもって、いっぺんは伊勢へ参拝することを御師は勧めたんや。そやけんど、そなんゆうたってもやな、やすげ(安易)に一般庶民が大金をはたいて伊勢の長旅が出ける訳がない。誰でもがそなん思うでがな。ほしたらどうな、御師はもの凄い妙案を出してその夢を叶えてしもうたんや。これはその後、四国遍路やほうぼうのおまいりにも使われた奥の術(て)や。

「御師はこの難問に対しても、鮮やかな方法を示したのです。伊勢講を組織して講員は毎月積立をし、そのお金で代表者数人が伊勢へ旅立つ、これを毎年繰り返せば、いつかは講員のすべてが伊勢まで旅をすることができるのです。あるいは講員共有の田畑からの収入をそれにあてることも指導しました。伊勢講田(イセコデン)・神明講田(シメコダ)といわれた伊勢講共有の土地は、どんな不測の事態がおころうと差し押さえの対象とはしないという法令が各地で出されています。」

こうやって旅費の工面がでけたら、後は旅立つ理由として、伊勢神宮参詣を名目に百姓連中は次々に動き始めたそうや。おまいりの目的に、村の豊作と領主である殿さんの武運長久を祈願しに行くとゆうて願い出た。こなんしたら、もう誰も止められんでな。江戸時代の旅行ブームは、これが始まりやったんやと。

そうそう、江戸時代になって旅行ブームの湧き起こった一番の原因は、徳川幕府の参勤交代の制度実施が大っきょかったそうな。寛永12(1635)年に参勤交代は始まったげなけんど、全国の街道が見事に拡張、整備されたんやな。それと一緒に大名が泊まる本陣と、庶民や個人が泊まる旅籠(ハタゴ)が宿場ごとにつくられた。一般の旅の人は、原則旅籠以外での泊まりは禁止やったげな。

その代わりに旅人が安全に旅が出けるよう、幕府や諸藩のその筋からお触れが出されて、決められた以上の宿賃をとったらいかんとか、川の舟は多少の増水ならでけるだけ出すようにとか、中には落としもんや忘れもんがあったら追っかけてでも届けるべき事みたいな指示まであったげな。このお触れがちょくちょく出されとるということは、違反者も多かったことかいな。ほんでも割に安全に男も女も旅が出来とるんは、つくづく日本ゆうのはええとこやったと思うでが。この安全性には驚いたと、外国人の旅記録にも残っとるそうな。

ほしたら、この次は御師が案内する夢みたいに豪勢な伊勢参宮の様子を、NHK出版から書いてみますで。それは信じられん豪華さで、いっぺん行ったもんは、又行きとうなるし、それを聞かされたもんは何が何でも行きとうて、夢にまで見たやろな。それはそれは凄いで。
 ほな、またな。


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