塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の四十八「娘巡礼記」(寄り道)愛媛県卯之町の歴史

お待ちどうさんでした。
ほしたら爺のいつもの悪い癖で、ちょびっとばっかし卯之町で寄り道をしてみるで。
この卯之町ちゅうのは、宇和島街道の街道筋で、町家と宿場の街並みしか無いんやけんど、文化の匂いが色濃く残る不思議なまちです。それには、あの司馬遼太郎さんもぞっこん惚れ込んでおられます。この宇和島とは、奥州の伊達政宗の長男が送り込まれたので有名な、曰くのある城下です。
それでは、インターネットの中から司馬遼太郎「街道をゆく」より勝手に引用させて貰います。

『しかしそれにしても卯之町という江戸期の城下町でもない土地によくもこれだけ立派な町屋と町並みが形成されたものだと思った。(宇和島十万石というのは、相当なものであったらしい)と思わざるをえない。

この一角に立つだけでも、宇和島藩の当時の実力が想像できるのではないか。江戸末期のある時期、蘭学は宇和島といわれたときがあった。わずか十万石の、それも江戸や上方からはるかに離れた「南予」という僻遠の地であたらしい学問の花がひらくには、それなりの経済の裏打ちが必要であったろう。

 藩が一冊二十両、三十両という洋書を長崎や江戸で購入させ、早い時期には高野長英、村田蔵六などの蘭学家を遠くから招聘し、その他、理化学や医学の器機、器材を購入するなど、新学問の育成というのは大変物入なものであった。

 この藩の財政が農業のみに依存せず、小藩なりの規模で殖産興業と商品経済に力を入れていたことをその裏側の実績として見のがすことはできない。
 幸いこの卯之町という商人町が江戸末期の商家の家並みをのこしている。この一角に立つだけでも、宇和島藩の当時の実力が想像できるのではないか。』

 ほんでここで見逃してならんのが、オランダおいねのことです。
 皆さんもよう知っとるでな、お医者さんのシーボルト。あのシーボルトの娘さんが、この卯之町に一時住んでたんや。そのいきさつを、これまたインターネットで見てみるで。

『江戸時代末期にあたる1823年、27歳の植物学者だったシーボルトは、ドイツ人だったがオランダ人と偽り長崎の出島のオランダ商館へ来日を果たします。来日まもなくして、シーボルトと結ばれた女性との間に生まれたのが、イネです。その後、有名なシーボルト事件が発覚して、シーボルトは国外追放となります。

 イネは当時まだ珍しかった混血の女性であるために、幼いころから差別を受けながらも、シーボルトから送られてきた医学書や蘭学書から学び、やがて医者の道を志ざします。ほんで、シーボルトの塾の門下生・二宮敬作がシーボルトからイネの養育を託されておったため、出身地である宇和島へイネを呼び寄せ、医学の基礎を教育します。その後、イネは二宮の勧めから石井宗謙のもとで産科を、村田蔵六からオランダ語を教わります。

当時の日本では、産婦人科の医学は浸透しておらず、お産は汚らわしいものとして扱われ、不衛生な小屋で隔離されて行われることが常識でした。イネは西洋医学を学んだ医師として、日本の女性たちに科学的な見地に基づく出産を説き、日本における産婦人科の発展に多大な影響を与える人物へと成長していきます。

 その後イネは卯之町を離れるけんど、その娘さんも立派な医者になっとります。

 これで卯之町の話は終わるけんど、もうひとつおもっしよい話があるんや。卯之町は海沿いの街なんやけんど、そこから山奥の町へ向かうと、その道に沿って川が山に向こうて流れとんや。その川は、やがて大洲市の肱川になるんやけんど、奇妙な感じやったな。その訳は、長い年月山から流下した土砂が海辺に堆積して、丘のようになっとるのが原因らしい。そやから海抜が高いため海に近いけんど、冬は寒うて、駅には大きな火鉢があったで。今も在るやろか? ほしたら、今日は早いけんど失礼するで。

塩爺の讃岐遍路譚 其の四十九「卯之町の明石寺を読む