またお逢いしましたな。
こやって歩いとったら、何ちゃ考えんとええ心持ちになるけん不思議でがな。お大師っさんにどこぞで逢えそな気が、ほんまにしてくるでが。
それはそうと、この八十八ヶ所を歩いておまいりするんは、普通60日以上かかると言われとります。総距離1300kmあるけん、単純計算でも1日20kmを歩く計算になるで。昔は道もろくに整備されとらんし、寺は山岳修行の名残からか険しいところがようけあった。
それを考えたら、どなんしたって60日以上はかかるでな。
昔の人はみんな健脚やったけん、1日20kmや30kmはへっちやらやったげなけんど、ほんでもそれを32日で廻った記録があるゆうけん、驚くでな。
ほしたら、また山本先生のご本から読んでみます。
代参遍路・走り遍路より。
「いくら修行とはいえ、遍路に出るには、長旅でもあるし相当の費用がかかる。一般農民にとってはとても捻出できるような費用ではない。そこで村では『講』を組む。これは中世から聖(ヒジリ)や御師(オシ=神社の先導者)たちが信仰をすすめるなか、しだいに仲間をつくって信仰生活を始めたことから起こったものである。この仲間づくりを講を組むといい、近畿以西の主な講には、行者講、熊野講、住吉講、稲荷講、金比羅講、大山講などがある。
とくに全国的に有名なのは伊勢講と大師講である。講中の者は一年の間に日時を決めて集まり、信仰する神仏を祀って講会をおこない、その信仰する社寺へ代参をたてる。代参は順番で決めることが多く、みんなから集めた金で代参にでかけられるというシステムである。四国では大師講のほかに、霊場の近くのむらでは『遍路講』もつくられ、これが遍路の盛行の一因ともなった。」
交通事情が悪うても、経済的にも余裕が無うても、ほんでも戦国の世が終わって平和な時代が続いたら、民衆は好奇心と解放を求めてもの凄いエネルギーを発散し始めたんや。これはもう、どなん殿様や役人が焦っても抑えられなんだ。江戸時代になって参勤交代(1635)が始まったら、日本中の街道が整備された。道中の治安も良うなった。貨幣が発達して余分な荷物を持たんでも旅がでけた。ほしたらどうな。
こなんなことになったげなで。
NHKの本で「お伊勢参りニッポン観光事始め・金森敦子」から抜き書きさしてもらうと「(1691年)ケンペルが驚いたのは、日本には、信じられないほどの旅行者がいるということでした。瀬戸内海を船で渡って、大坂で陸に上がり江戸へ向かったのですが、東海道には旅人たちが溢れ、まるでヨーロッパの普通の都市の街路を歩いているようだったと書いています。何百人もの家来を引き連れた大名行列、急ぎ足の商人、走り抜けていく飛脚、こうした旅人の中でいちばん多く見かけたのが、伊勢参りをする一般庶民の姿でした。」
江戸初期でこうや。こないして、伊勢や西国、金比羅さん、熊野詣でと、日本中信仰と好奇心に溢れた庶民が、旅に出とったんやな。上の本から伊勢のおかげ参りのことを見たら、ほらびっくりするで。何百万人が伊勢へ押し寄せたゆうんやけん、もう暴動に近い。ほんでも平和にまんで(すべて)が治まったゆうけん、日本人は根っからの平和主義者やな。この「お伊勢参り」はおもっしょい(面白い)けん、次回に書かしてもらうでな。
神さんと違ごうて仏さんの信仰ゆうたら、やっぱし四国遍路やわな。ほんでもようけ金が掛かる。その費用のたいがいは食費と宿賃や。ほしたら日数を減らしたら、安うに行ける。そこで生まれたんが「走り遍路(ヘンド)」や。その記録が残っとるげな。
「文化二年(1805)、土佐国朝倉村の兼太郎は、二月十二日遍路に出て三月十三日にわが家へ帰ってきた。所要日数はわずか三十二日、ふつうの人の半分の日数である。年若く、無類の健脚でなければ、こんな記録はつくれない。大師命日の三月二十一日に向けて地元はじめ海の向こうから接待講の人びとがやってきて、沿道で接待し始める。兼太郎はマラソン選手のように走りながら接待の茶を飲み、赤飯・餅・味噌汁をほうばりながら一目散で走りつづけた。霊場をチェックポイントと心得て、それを一つ一つ消化していく姿が思い浮かぶ。彼は健脚にものをいわせて記録に挑戦したが、本当の理由は旅費の節約であった。」
走りもってものを喰うゆうたら、こら凄いで。
だいいち消化に悪い。
ほんで1日40km以上の走りを32日も続けたゆうけん、考えられんな。ほしたところ、この走り遍路をインターネットで検索したら、今でも何人か挑戦しとるげなな。
ほんならと爺の知り合いに聴いたら、最近20日で廻った人も居るげなで。この爺の知り合いゆうんが、65歳で100qマラソンを年間3回以上走っとる超人みたいなお人や。世の中には、もの凄い人はようけ居るでな。
山本先生の本では「戦前まで三、四人かたまって、こもをまとって菅笠だけでは防ぎきれない土砂降りの中を、雨水を全身に浴びながら一目散に走り抜ける姿がよく見かけられたという」とあるけん、そなん珍しいもんでもなかったんかな。ほんでも、記録に残したもんはす(少)けないんか、あんまし知られとらんな。そんならそのす(少)けないもうひとつの記録を引用するな。
「弘化年間(1844〜48)、伊予今治領のつるという女は三月初め、伊予の五十五番南光坊から打ち始め、四月中旬五十四番延命寺を打ち終わった。女の脚とは思えない四十五日間で遍路をすませたのである。」これで平均1日29kmになるで。この時代ゆうたら明治維新の20年くらい前、坂本龍馬が少年の頃や。
ほしたら今日も、これで終わるでな。
ぼちぼちネタも切れかかった。とゆうても、山本先生の本はまだまだ面白いことが書いてある。ちょっと休んで、残りの2つ、3つを書くで。
その前に、NHKの平成19年10月に放映された「お伊勢参り〜」の中で、おかげ参りがおもっしょい(面白い)けん、無断引用になるけんどこんどご紹介するで。
ほな、気ぃつけて行きまいよ。
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