塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の四十一 遍路の道草「お伊勢参り」④抜け参り・お陰参り


 軽い寄り道のつもりが、ようけ歩いとるな。
 それにしても、世の中は得体の知れんコロナウイルスちゅうもんが蔓延して、おとろしいことになっとる。どなたさんも、気い付けていたな。

今度の「お陰参り」の話で、伊勢の旅は終わりにするで。そやけんど、この「抜け参り・お陰参り」たらゆうもんも、不思議なこっちゃで。江戸時代半ばから起こった、まんで日本民族の大騒動やった。人間て、不思議なもんやわな。

 江戸時代の寛永12(1635)年に参勤交代が義務付けられた時、幕府は全国の街道を整備したげな。ほしたら大名行列だけやなしに、一般民衆までが旅に出たがった。遠いお寺やお宮さんへのおまいりが、庶民の夢になった。それで流行ったんが、何人か集まっての集団参宮や、お寺詣りや。街道をおもっしょ(面白)げにぞろぞろ歩いとる集団を見とったら、毎日家の仕事や奉公先の店で仕事しとる自分が嫌になって、我が(自分)も行きとうなるんは当然やわな。そこでつい、ふらふらっと出歩くもんが出てきたげな。

 慶安2(1649)年に伊勢神宮を新しく造営する式年遷宮(セングウ)が行われた。この時ようけの人が参宮したんやろな。ほしたらそれに刺激されたんか、そのあくる年の春三月から、江戸市中の子どもがあっちゃこっちゃからどんどん伊勢へ目がけて歩き始めたそうな。どうやら江戸の商人か何かが抜け参りを流行らせたゆう説もあるけんど、とにかくみんな白衣を着て、幟(ノボリ)を立てて柄杓(ヒシャク)を持って、お伊勢さんへ向こうたんやと。これ、信じられるでか? 一種の集団催眠状態かな? 装束や風体が一緒やゆうのをみたら、やっぱし仕掛け人がおったんやろな。

 よう分からんのやけんど、この年の箱根の関所の調べやと、最初は子供が1日500~600人やったんが、翌年の3月ごろには1日2,500人くらいに増えたそうな。ほんなら関所での通行手形の改めはどなんなっとったんかゆうたら、それがように分からんのやけんど、どうも子どもらは大人の集団に紛れて通り抜けられたげなで。とにかくお伊勢さんまで、金が無うても行けたんやと。

 子どもの抜け参りゆうたら、こなんな話があるで。明治維新で有名なあの勝海舟の父親は小吉ゆうたけんど、その小吉が14歳の時分(1815年)にやっぱし家出したんやと。小吉はなにげのうみんなに付いて上方(カミガタ)へ向こうとったら、道中でゴマの灰に身ぐるみはがされたそうな。ほんでも柄杓(ヒシャク)1本を頼りに1人旅を続けた。柄杓を持った旅人は伊勢参りのしるしで、柄杓を差し出したら周りのみんなが食べ物やお金を喜捨してくれる決まりやったそうな。小吉もその時柄杓を差し出したら、なんと5升の米や麦、120~130文の銭が集まったゆうて「夢酔独言」に書いとるそうな。ほんまに優しゅうて信心深い、日本庶民の姿が見えるでな。

 それまでの集団参宮は、親や奉公先のご主人さまに黙って内緒の抜け参りと言われて、本格的なお陰参りが始まる前段やった。それから10年後の宝永2(1705)年、ここから本格的なお陰参りが始まるんやけんど、この時は何と、2ヶ月間で330万人から370万人が、伊勢へお参りしたげなで。これ日割りにしたら1日6万人からの人が、毎日毎日60日間押し寄せたことになるんやで。汽車も車もない時代や。

 NHK出版によると、こなん書いとる。
 「伊勢松坂の国学者本居宣長(モトオリノリナガ)は『ある物に』と前書きして、その書物から引用した信じられないような参宮者数を記しています。閏四月九日から五月二十九日までの五十日間で、総数三百六十二万人が参宮したというのです。」
 1700年当時の人口が2,769万人や言うけん、日本の総人口の1割以上がこの時お伊勢さんへ参ったことになるで。これ、なんやろな?

 ほしたらこの宝永2(1705)年と天保2(1831)年の風景を、またまたNHK出版から引用するでな。 
「閏四月上旬の頃から、京都洛中から七、八歳から十四、五歳までの子供たちが男女を問わず、貧富の差もなく抜け参りをすることがおびただしくなり、大坂・奈良の畿内にごく短期間に流行し、まるで熱にうかされたようになって、妻子は主人に暇(イトマ)も乞わずに従僕を従えて家を出ていってしまう。伊勢街道は大混雑で立錐の余地もない(元禄宝永珍話)、と記されている。」

 次の天保2(1831)年のおかげ参りは、どないやったかというと、「このときの参宮者の人数もはっきりしませんが、閏三月末から六月までの三か月間に、宮川の『ご馳走舟』に乗った者は四百二十七万六千五百人いう記録があります。この他に東海道吉田から勢田川の河口にある神社(カミヤシロ)港へ船でやってくる参宮者も多かったことを考慮に入れると、明和のときにくらべて地域は多少狭いものの、人数ははるかに多く、五百万人を上まわったと考えられます(NHK出版)」

 上の2つのお陰まいりの間に、明和8(1771)年がありましたで。この時の参詣者は200万人で、多い日は地元松坂の住民は、自分の家から道路を渡って向かいの家へ行けなんだゆう記録があるくらいやったそうな。

 ほんで最後が明治維新の前年、慶応3(1867)年のええじゃないか騒動やったけんど、これは正確な伊勢のお陰まいりとは違うとった。世の中の動乱に乗じた作為が見えて、踊り狂いの集団も伊勢へ行かんと近くの神社へ参るもんが多かったげなな。

 このええじゃないか騒動の実際を、讃岐の3大奇人「空海、平賀源内、宮武外骨」のうちの一人、外骨はんの文章から見てみるで。ちなみに外骨とは、外に骨(甲羅)がある亀の事で、中国語からきとるげな。これを外骨はんは、親がつけた亀四郎の名を嫌うとって、明治12年の太政官布告の改名禁止令廃止の令に便乗し、すぐさま外骨と改名したそうです。この外骨はんは、明治憲法発布の錦絵に、あろうことか明治天皇の位置に骸骨全身像を入れ替えて、我がの雑誌に「とんち憲法発布の図」言うて掲載したんや。その時代や、不敬罪で死罪にも相当やけんど、重禁固刑ですんでる。二十歳前の天衣無縫のお人やった。外骨はんの一生も、面白いから一読を讃岐人としては、是非お勧めします。日本のジャーナリストの草分けで、お上と喧嘩の生涯やった。ともかくすこぶる滑稽やと、外骨はんの甥御さん吉野氏は書いとられます。「宮武外骨伝・吉野孝雄 河出文庫」

  「ワタクシの生まれた郷里は讃岐の国阿野郡小野村という高松から五里、丸亀から四里、琴平から三里の山間僻地ですが、山川秀麗(サンセンシュウレイ)の気、磊落奇傑(ライラクキケツ)の才を生ずとはいえ、讃岐は凡山凡川ばかりなので、ワタクシのようなヘンネジ(変わり)者が生まれたのでしょう。」「慶応3年は、例の天照皇大神のお札が天から降ったというのがモトで、阪神や四国の愚民共が熱狂的に踊り廻ったのです。向こう鉢巻きで襷(タスキ)をかけた草鞋穿きの男十数人宛隊を組んで豪農の家に押しかけ、その土足のままで座敷に上がり『エージャナイカ エージャナイカ』といって踊る。次は台所へ入り込み酒樽を取り出して冷や酒を呑み、飯櫃(メシビツ)を開けて飯を食い『酒を呑ましてもエージャナイカ、飯を食わしてもエージャナイカ』といって同じく踊る。ワタクシの家は(県下一の大)庄屋であったので随分荒らされ、一日に幾組もやって来るので、酒を取り寄せたり飯を炊いてその闖入(チンニュウ)に備えていたそうです。」明治維新の前年に、こんな捨て鉢な暴動が、近畿周辺で荒れ狂ったそうじゃ。

 そんで明治になって天皇が伊勢神宮へ行幸したんをきっかけに、明治新政府は御師の活動を禁止して、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしもうたんやと。

 どないやったでか? 聖地を求めて巡礼が殺到するんは、日本だけやなしにインドでも、中近東でもあるでな。これは人類共通の行動パターンやろか。現代人のルーツをDNAで辿ったらアフリカへ行き着くそうなけんど、これを逆に考えたら世界中の人間はそんだけ遠い旅をして現在の土地へ住み着いとることになるでな。その潜在意識が、古里回帰みたいな旅へ人々を駆り立てるんと違うでかなぁ。
 あとはみんな、めんめ(自分)で考えていた。ほしたら、お伊勢参りの旅はこれで終わるで。またどこぞでお逢いしましょな!

 次はお四国の「娘巡礼記」に行くでな。大正のそれはそれは、暗い時代の巡礼記やで。

塩爺の讃岐遍路譚 其の四十二「娘巡礼記」の時代背景からへ