塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の四十二「娘巡礼記」を始める前の時代背景

 長いことお待たせて、すみませなんだ。道草も疲れますわな。
 ほしたら、四国遍路にぼちぼち行くでか? 時代は明治に入ります。テレビでは、渋沢栄一たら言う偉いお方が活躍しておられましたな。文明開化って言うやつですわ。

 その時代を「四国遍路の民衆史」で山本先生はこう表現されとります。山本先生のご本は、時代背景とその成り立ちを、実に詳しゆうに書かれとります。ごつい立派なご本です。
 それでは、ご本の「近代化の波を受けて」から引用します。

「鎖国から開国への波を受けて、瀬戸内の諸産業は、資本主義の世界市場との接触から、つぎつぎと敗退していった。」
「日本の航海はインド航路ができて、ボンベイ綿が年間五萬俵も輸入されるようになって、在来綿業は大きな打撃を受けた。」
それが原因で、在来の手繰り製糸では間に合わんようになってから、機械紡績に代わられた。この多額な資金は、渋沢栄一が興したゆうて言われる銀行と言うものを通して、企業への巨額な運転資金となって流れたそうですわ。綿業だけやない、阿波の藍産業も、讃岐の砂糖産業も、瀬戸内海の塩業も、地場産業はまんでがん(すべて)壊滅です。これが文明開化の宿命や。

こうなるとどないなるか、山本先生によると、商品の輸入増加のため、国が保有する金銀がなくなり、間に合わせに作った紙幣が膨張し、それを立て直すため市場から紙幣を回収したところ、今度はデフレになってしもうた。その結果地価や米価が下落し、農民は納税した金が足りんで、次々土地を手放さざるを得なくなった。
手離した土地は、地主や高利貸しに集中して、中小の農民たちは没落して、都市へ流れて流民となるか、小作人化するしかなかったそうや。まんで「おしん」の世界です。 

 当時の世相を「四国遍路の民衆史」では、こう表現しとられます。
「東京・大阪の二大都市の貧民窟について、新聞社が実態調査に乗り出し、次々発表された。
 ・明治十九年 朝野新聞 『府下貧民の真況』
 ・同二十一年十二月 時事新報 『大阪名護町貧民社会の実況紀略』
 ・同二十三年八月 日本新聞 『貧天地大飢寒窟探検記』
 ・同二十五年  国民新聞 『最暗黒之東京』

 これらが書かれた明治二十三年前後は、我が国において最初の資本主義的恐慌の起こった年で、世情は不景気に苦しみ、地方では米よこせ騒動が頻発した。」

 どうな、これが文明開化の裏側やで。ほんな時代に、一人のオナゴ衆(シ)が九州熊本で生まれたんやと。明治二十七(1894)年、小学校校長の長女、高群逸枝(タカムレ イツエ)でした。兄4人が早世し、最後の望みとして観音様に願掛けして生まれたのが逸枝はんやったそうな。そやから幼い時から「かぐや姫」とか「観音様」と言うて大事に育てられた。それはそれは、信心深い家族やったそうや。

 ほんなら、これから本題に入る前に、この高群逸枝はんがどないなお人やったかを見てみるで。これがまた、物凄く偉いお方やった。日本の女性史研究の草分けで、あの「平塚らいてう」さんと組んで女性権利拡張の活動をしたそうな。ほんでから、詩人、小説家、研究者、活動家、目まぐるしい活躍やったらしい。今ならスーパーウーマンやな。
 因みに、令和4年3月の毎日新聞の図書広告で、藤原書店・別冊「潮」にこう書かれとりますで。     
高群逸枝1894―1964「詩人にして女性史のパイオニア」「女性史の開拓者」
どうな、偉い表現やな。

 そのオナゴ衆(シ)がなんで遍路旅に出たんかと言うたら、逸枝はんは熊本女学校、熊本師範を出て、父親の計らいで小学校の先生になったけんど、そこで好きな男性にはいい返事を貰えんと、好きでもない男衆(シ)から言い寄られて逃げ出したらしい。それと独立心が強うて、当時の男社会の仕組みが肌に合わなんだみたいや。先生の道を諦めて、そんでも書くことが好きで、選んだ次の新聞記者言うのんが、これまた当時は完全な男衆社会や。弾き出されて、辞職することになった。その退職願いが「九州日日新聞」の宮崎社会部長の目に止まった。

山本先生のご本によると、この宮崎という部長は社会派の人で、当時の貧困の世相を政府に知らせたい野望を持ち、若いおなご衆の巡礼旅日記を新聞に掲載することを企画したそうや。この時十円の資金を渡したそうです。今のお金で二、三十万円位かな? ほしたところ逸枝はんは、あふれる情熱と好奇心で、我を忘れて旅立を決心したみたいや。

ただ、初めは観音霊場巡りを考えとったらしいけんど、途中で気が変わったそうです。
そのことは、「娘巡礼記・岩波文庫」にこう書かれとります。
「実は私は最初花山院のご遺跡である西国三十三ヵ所の巡礼をと思っていたが、それはやめて
弘法大師の四国八十八ヵ所を遍道(路)する事にした。御詠歌だの御和讃だの見せられると胸がおどる」
これは詩人である逸枝はんの並外れた感受性のあらわれで、和讃の響きが心を捉えたんやろうな。

ほんで、当時の遍路旅のいでたちは、「娘巡礼記・岩波文庫」によると、次の通りやったそうや。

・つま折れの菅笠
・行李付荷台(これは道中捨てる)
・おいずる
・脚絆、足袋、草鞋、手甲
・札挟み(縦六寸幅二寸)
・袋
 この他携帯品は、紙、インク、ペン、書籍、着替え、小刀、印

 旅立ちの前夜の会話が、またおもっしょい(面白い)で。
「ねえ、お婆ァさん、何処でも泊めて下さるでしょうか」
「泊めるとも、あんたみたいな小さなオナゴ衆(シ)が一人で歩いていくんだもの。」
でも一つの蚊帳に十人ばかしも一緒に寝るのだと聞いて吃驚した。~ 何だか泣きたくなってくる。しかし面白い、一つ泊まってみようなんて生意気も考える。

 まんで世間知らずの少女が、当時はライ病や結核病人の捨て場で、死の国と言われた四国遍路の旅に出るのやから、後は逸枝はんの想像を絶する体験の連続です。それを異常ともいえる感受性の持ち主がその文才に任せて書き綴り、これが宮崎部長の狙い通り新聞連載として九州全土に流されたそうや。
 ほな、ここで一息ついて、次回は逸枝はんの生まれ故郷の九州熊本から出発しまひょか。

塩爺の讃岐遍路譚塩爺の讃岐遍路譚 其の四十三「娘巡礼記」 熊本出発そして大分へ