塩爺の讃岐遍路


塩爺の讃岐遍路譚 其の四十三「娘巡礼記」熊本出発そして大分へ


 いよいよお遍路の旅の始まりやで。その前にもういっぺん時代背景を観ますと、大正8年の世の中は有名な米騒動の真っ只中です。米騒動のいきさつは、住井すゑさんの「橋のない川」に詳しく書かれとります。どうぞ、ご参考に。

 それにしても、先達も道連れものうて、よう独りで旅に出たもんやと感心するでな。そこんところはあんまし分らんけんど、とにかく明るく出掛けておられます。、
第1日目
 大正八(1918)年六月四日早朝、娘巡礼さんは、熊本県大津の町を出発しました。その旅立ちは、何と人力車やった。ほんまもんの、お嬢さんの巡礼やなぁ。町の反応は「ちょっと出てごらん。可愛い巡礼さんが」ということばに、顔が真っ赤になった、と書かれとります。

 それから町を離れていく道中も、
「ちょっと出てごらん。可愛い巡礼さんが」という声や、「どこのお嬢さんですか」と言われて、
顔を赤らめる、とあります。

 町のはずれで車を降り、いよいよ独り歩きとなります。その夕方、「幾度か逡巡しながら思い切って『私は旅の巡礼で御座いますがどうぞ今夜はお宅へお泊め下さいませ』と伏し目勝ちに言うと、ある家を紹介される。

 そこでは熱いもてなしの食事と煩わしいほどの質問を受けた後、広い庭の片隅の風呂を勧められたげな。何度も断るが断り切れず、恥ずかしがりながら、多くの村人の環視の中で風呂をいただくといった体験を記す。
 その夜は、寝る前に何べんも巡礼に出た訳を聞かれ、「母親が、私が生まれる時、観音様にこの子を丈夫に成長させてくださいましたら、きっと一人で巡礼いたさせます」と誓ったことを話して納得してもらえたそうです。「私の母は大の観音様信心である」と書いています。

 どうな、何をしても初めての体験で、先が思いやられますが、これからも「娘巡礼記」の記述に従って書いていきますんで、付いてきていたな。
 
第2日目(六月五日)
 あくる朝、大津から立野へ向かいます。その途中、ノルウェー作家の本を片手に、さすらいの歌を口ずさんで歩いた、と言うからハイカラなお遍路さんですがな。そうこうするうちに、背に負った荷物が重とうて耐えられんようになったそうじゃや。どうにも耐えられんようになって、背の箱を捨てようと思いつく。中身を取り出し、いざ捨てる段になると宿のお爺さんが丹精込めて作ってくれたものと躊躇う。しかし、仕方無うこの箱と荷台を大切にして欲しいと、手紙を入れて林に置き立ち去ります。

 その日は土地の人の勧めで、数鹿流(スガル)滝に立ち寄り、そこで人品卑しからぬご夫婦に出会い、宿の世話を受ける。「わしも娘や息子を熊本に遊学させているのでそれが貴女位な年頃だから一だんと同情するのじゃ」の言葉に、郷里の父親を忍んだそうじゃ。

第3日目(六月六日)
 あくる日は雨の中、立野を出立します。とある店で休息していると「すみませんがどうぞ私の志をお受け下さいませ」とお上さんがお米を盆に乗せて来た。さあ大変、私の袋にはノートとペンが入っている。困っていると「では袋を上げましょう」とこれが頭陀袋というのか変手古な袋にお米を沢山入れて下さった、そうです。

 ここからが世間知らずなお嬢さんの行動や。ほんま笑うで。やっとそのお米を貰い受けると、二,三町も歩くと、重とうてしょうがない。そのまま捨てたいがお上さんにすまない。あれこれ思案しておると、そこへ乞食坊さんが行き会わせたので、その乞食坊さんの前へ米を投げ捨てて一目散に逃げたそうな。

 その後、行き暮れて道端の石に腰掛けて、真っ赤な入日を眺めていると泪がはらはらとこぼれ落ちて止めどない。ここは年端もいかん乙女らしい風情や。そこへ村の人が通りかかり、お寺を紹介される。親切な和尚さんと優しい坊守(ボウモリ)さんに、こころから労わられて感激したそうや。
 第4日目(六月七日)
ところが翌日、「どうも由ある家の娘らしいが何か失敗があって無断家出をしたのじゃあるまいか。」と問い詰められ、しょうことなし(仕方なし)に、またありのままを話す。やっとただの巡礼と分かってもらうと、今度は四国の遍路帰りの老夫婦を紹介される。その話が大変やった。

旅費が五,六十円もかかるという。懐中は残り僅かや。それにどこの山ここの山では若い娘が殺されたり、姦されたり、それもいまの時節が一番わるいという。
それを聞いて逸枝はんは「私は心細くなってきた。でも構わない。生といい死という、そこに何ほどの事やある。私は信念を得たい、驚異を得たい、歓喜を得たい、さもなくば狂奔を得たい。とにかく苦しみ悶え泣き喚いていく裡には例えなき尊厳な高邁な信仰にも到達するであろう。私の生くべき途は、も早それ一つにあるのだ。~~ 迫害よ!来たれ、妾(ワレ)豈(アニ)おどろかんや」

何とも勇ましいことばですな。さすが、逸枝はんや。
 こころ優しい寺の人たちに別れを告げ、阿蘇の高原をひたすら東へと進みます。道は坂梨から竹田へと、その途中、ガタ馬車がやって来た。「姐さん、お乗んなさいまし。お銭(アシ)は決して要りません」と言って「一鞭振るうや、馬は脱兎の如くかけりて忽ち竹田町に」入ったそうや。
大分では、小学生に礼儀正しく挨拶されて、逸枝はんは痛く感心させられます。
ただ、教えられた寺へ行くと、「折角だが泊めることは出来ません。見れば十五か十六げな、とても一人じゃあるまい。一人で歩くよな面体じゃない。さ、下の旅館にでもお出でなされ。」と追い出される。

途方に暮れて歩いておると、若い上さんから忽然声がかかり、宿を探していると伝えると、「それは、それは。じゃ私の家へいらっしゃい、お宿上げますわ」とのこと。捨つる者助くる者世はおもしろきかな、と安堵し、その夜は心やすきもてなしをいただく。

ここから大分の旅が始まるけんど、この後思いもかけん出会いがあって、この巡礼の旅が展開していくでな。それは、次回にしましょ。ほんじゃ、一休み。

塩爺の讃岐遍路譚塩爺の讃岐遍路譚 其の四十四「娘巡礼記」 大分入りへ