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塩爺の『讃岐遍路譚』
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塩爺の『讃岐遍路譚』 Vol.1〜Vol.7


塩爺の讃岐遍路譚 其の一 「どなたさんも、ご免なんしてよ」

 
 ようお出(イ)でましたな。ここは、四国の玄関先といわれる讃岐の国でが。讃岐と言ゃぁ、昔からへんねし(変わり者)の生まれるので有名なとこでのう、頭はええけんど、さっぱり組織におさまらん人間が多かった。有名なとこじゃ菊池寛や宮武外骨いうのが明治生まれにおった。菊池寛は小説たら言うもんを書いて案外まともやったが、外骨いうのはさっぱり分からん。はたち(20歳)やそこらの若い時分に東京へ出て新聞を出して、明治天皇さんをからこうたり、その後役所と喧嘩ばっかりして、ほれで何十遍も刑務所へ放り込まれては、それを記事にしてまた売る、それはそれは面白い男やった。この男のことを知りたかったら、連絡くれたらメールでちょびっと(少し)詳しに書いたもんを送ったげるでぇ。外骨(がいこつ)言うのんは、中国の言葉で、ほんまは亀のこっちゃ。身体の外に骨(甲羅)があるけんの。これは、ほんまの話しやで。

そやそや、江戸時代にも平賀源内とゆうて、頭がええのに融通が利かんで、とうとう一生浪人で終わった男もおったな。医者で、発明家で、画家で、陶芸家で、お芝居も書いとった。何が本職か分からん。ほんまは鉱山資源の探索、昔の山師や言うひともおる。

そんでも、一番へんねしなんは、空海はんや。空海はんのことは、また別のときに詳しゅ話すけんど、頭の良さでは聖徳太子とええ勝負やな。なんでも知っとったみたいで、呪術も出来て、マルチタレントのはしりや。中国へ行っても、書を書いたら本場の人が舌を巻いて見物に来たんやから、どないもこないも考えられんわ。真言密教も、最後の伝道者の恵果(ケイカ)たら言う偉いお坊さんが空海はんの来るのを待っとったように迎えて、教えたらすぐ死んでしもうた。空海はんも真言密教を伝授されたら、大急ぎで荷物を取りまとめると、飛ぶようにして日本へ帰っとる。うかうかしとったら、帰れんかったかも知れんもんな。あっちゃでも有名人になりかかっとったからな。

日本へ帰った空海はんは、秘策を練ってはどんどん自分を売り込んで、とうとう(嵯峨)天皇さんの気に入られて高野山を開いた。そいでもって、死んで86年後に弘法大師の称号をもろうた。そんな空海はんを慕うて修行の跡を訪ねる四国遍路たらゆうもんが出来とるけんど、それがいつごろから始まったんかよう分からん。そやから、ぼちぼちに調べてみようと思う。こんな頼りない爺でもよかったら、これからぶらぶら探索の旅に出掛けるけんど、ご一緒するでか? 同行(ドウギョウ)二人やで。


塩爺の讃岐遍路譚 其の二  「巡礼の話・熊野詣(くまのもうで)」

 
 お出(イ)でたんな。お待ちしとったで。こないだ(2004年7月2日)世界遺産に、高野山から吉野、熊野の古い巡礼の道が選ばれとりましたな。四国遍路もそこから始まっとるらしいで。ほんだけん、今日は、巡礼の地の始まりを調べてみるでな。

人間ゆうもんは、不思議なもんやな。大昔からみんな食べもんと安住の地を捜して、山を越え、海を渡って旅をしとった。それでええとこに住めたと思うたら、今度は何か強い力に憧れて、神さんや仏さんが住んどる山奥へ旅をする。世界中で、この聖地を訪ねての巡礼は一杯あるそうや。命を懸けてでも旅する人が、今も昔も後を絶たん。なんでやろか。
 
 日本でもようけあるけんど、一番古いとこは、やっぱり和歌山県の熊野山地らしい。なんでここが巡礼の始まりかと言うと、大昔から熊野や吉野いうたら紀(木)の国や言われるくらい大木が茂っとって、船を造る木材の産地やった。昔は、船は大事やったけんの。それにここいらは、水銀や朱のもとになる辰砂(シンシャ)がようけ採れるところでのう、ほいでもって鉄造りの本場でもあったようや。鉄砲鍛冶で有名な根来(ネゴロ)衆も、ここや。昔から武器の生産拠点やったかも知れんな。そやからここはいろんなもんを生み出してくれる恵みの土地で、いろんな神さんが住んどるいうて山全体が信仰されとったそうや。
そいで大昔、大和に朝廷がでける前から、古い日本人がいっぱい住んどって、そんで、古い神さんの拝み場所が、ようけあったんやろな。おまはんら知らんやろけど、わしらのちんまい(小さい)頃は、日本中で家の周りは神さんだらけやったで。井戸の神さん、カマドの神さん、田んぼの神さん、果ては便所の神さんや。なんでや知らんけんど、どっちゃ向いても神さんだらけで、立小ん便するのもおとろし(怖ろし)かったくらいや。

そこへ大陸から渡来の弥生人が勢力を強めて、それまで住んどった古い日本人を支配していった。そんで新しい名前の神さんを押し付けた。それからずっと後、六世紀に朝鮮から伝わってきた仏教の寺があちこちにでけた。坊さんは仏さんの浄土と信者を求めて、日本中の山へ分け入っとるな。それからこれはもっと激しい修行をする山伏のような修験者が、吉野の山へ集まっとる。熊野や吉野の山は、奈良時代から平安時代、鎌倉時代には宗教のメッカみたいになったんやな。

そこへ都のえらいさんたちが、またようお参りしたそうな。熊野古道たら言うのんは、その名残や。それはそれは、えらい道やったそうな。お供のお公家さん(藤原定家)が泣きながら、後を付いて歩く日記も残っとる。それでも皇族や貴族の偉いさんたちは、自分らのええ暮らしが長ごう続くことを願ごうて、険しい山を何ヶ月もかけてお参りしとるんや。一番多かったんが後白河上皇たらいうお人の34回、後鳥羽上皇が28回やゆうて本に書いてある。その費用が大変で、なんでも白河法王はんの御幸(ギョウコウ)では、1日の食料費が16石2斗やった言うから、すごいもんやなぁ。この食料に加えて馬や人夫を駆り出された地元の民(タミ)百姓は、泣くに泣けんかったやろな。「民疲れて、国滅びぬべし」言うて陰口たたかれたくらいや。
話しが長ごうなったんで、今日はいぬ(居ぬ=帰る)わな。又、お逢いましょうで。


塩爺の讃岐遍路譚 其の三  「巡礼の話・信仰の始まり」

これはこれは、ようお出でたな。こないだは熊野詣の話しをしたけんど、ついでや、今日はその元になる信仰のおこりについて、ちょびっと回り道になるけんど一緒に考えてみるでか?

人間の祖先がこの世に生まれて何十万年にもなるけんど、最初に死を悲しんだんは、ネアンデルタール人やと最近のテレビで言うてましたな。洞穴の墓穴らしいとこで、人骨の周りに一杯花粉が残っとったそうな。これは花をそなえて、死んだもんを弔ったんやないか、って言うんや。そやとしたら、えらいもんやな。
話はそれるけんど、人間が酒を呑み始めた訳も、不安や恐怖や悲しみから逃げるためやった言う説がある。酒はせいぜい5千年か3千年くらい前のことや。人間は死を怖れ悲しむことから、魂の存在を想い、神さんや仏さんを信じ始めたんやろな。

それで人間が死んだら、魂が山に昇り空の方へ行く、とかいう考えが出てきよった。日本人の山岳信仰は、これからきとるらしい。道教たら言う考えも、魂は天へ昇ると言われとるな。日本人はもともと、どこにでも神さんが居てるというアニミズムたらいう考え方を持っとったらしいが、これはアイヌの人たちと一緒や。そやから、考えられんような山奥にも、拝む場所を作っとるし、山そのものを神さんとして信仰もしとるな。

それからこれはあんまり本には書かれてない話しやけんど、日本の古代史で謎なんは、大昔から水銀や朱の原料となる辰砂(シンシャ)又は朱砂(シュサ)をみんな気違いみたいに捜しとる。特に朱は腐敗防止用に使こたんか、単なる赤色顔料か、又は水銀に作り替えたら鉄以外のどんな金属でも溶かす力を持っとんので、それを知っとって求めたんか、これがなんでなんか、誰にもよう分からん。とにかく丹や丹生(ニュ又はニブ)の字のつく地名はその名残らしいけんど、全国にようけあるやろ。これに鉄や銅の産地を重ねると、いっぱい古代人の足跡が見える。とゆうことは、古い神さんがそこに居てたんやろな。あの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)伝説で、歩いた跡を調べたお人が居るけんど、みんな鉄(砂鉄も含む)の産地やったそうな。あれは征服の旅やったんやな。これで分かるように大和朝廷がしたんは、辰砂や鉱山の徹底的なぶん取りと管理で、そこにあった古い神さん、つまり産土神(ウブスナカミ)を押さえつけて新しい神さんに置き換えたんや。そやから、どこの神社も2つ以上の名前を持っとるやろ。

さて、この後からまたまた話しがややこしなるで。渡来人の勢力は近畿一円で拡大し、大和朝廷となって固まりつつあった6世紀ころ(552年)、今度は仏教が朝鮮大陸から入ってきた。蘇我馬子や聖徳太子みたいな偉いさんたちは今来(イマキ)の神の仏教を信仰して、やっと置き換えに成功した神さんを大事にする物部氏らと戦うた。それで仏教派が勝ってしもた話しは、よう知っとるわな。。やがて律令制度も確立し、仏教は国家宗教として拡大して、寺院があちこちに建てられたけんど、これは貴族のための仏教でしかなかった。ほんまのとこ、民衆の信じる神さんには、なかなか勝てなんだ。
そこで考えられた奥の手があるけんど、長ごうなるんでその話しは次にするでな。


塩爺の讃岐遍路譚 其の四 「巡礼の話・本地垂迹(ホンジスイジャク)」

 こないだは、ごめんで。話しの途中で切ってしもうてからに。ほな、続きを行くでか。奈良仏教が盛んになった7世紀後半、こんどは山岳信仰が広まり、行者とか山伏の元祖みたいな伝説の人、役小角(エンノオヅヌ)が現れて、仙人みたいな活躍をした。空を飛んだり、病気を治したり、えらい神通力のひとや。これが修験道ゆうて、吉野の山を本拠地に広まった。修験者は、山から山へ分け入って、超人的な修行をしたそうや。それで霊力を高めたんやな。修験者の装束は四国遍路の装束によう似とるけんど、その話はもっと後で詳しいにするでな。

 この修験者の元は、優姥塞(ウバソク)ゆうて正式なお坊さんではない、在家の信者が修行したんや。あの空海さんも若い時分、都の学問に行き詰まってから大学を飛び出して、突然この優姥塞になって四国の山奥へ走り込んだらしい。空海さんと修験道は、切っても切れん関係をもっとるけんど、それは後で話すでな。

 ほんでから私度僧(シドソウ)ゆうて、これも役所から正式な認可を受けてないお坊さんのことやけんど、その代表みたいな行基はんが民衆へ仏さんの布教に力を発揮したそうや。それを初めに朝廷は仏教の権威を乱すとして行基はんを滅茶苦茶弾圧しとった。そいでも東大寺の大仏を造る時には民衆の協力がの(無)うてはどうにもならんで、ついに行基はんの力を借りて完成したんや。

 話しがまたそれるけんど、この大仏さんを造る時、金のメッキをしたんや。これでようけの者が死んどるんや。水銀が鉄以外の金属はほとんど溶かすの、前に話したわな。実は金のメッキをするのは、金を水銀で溶かすんや。この水銀とほかの金属の合金をアマルガムて云う。このアマルガムを銅像へ塗って炭火で温めるんや。ほしたら水銀だけが蒸発して、金の膜が残る、これが古代のメッキやったけんど、蒸発した水銀を吸い込んだ作業員はみんな病気になって死んでしもた。いまの水俣病やわな。そら、毎日何千人の病人や。
ほいでも原因を誰も知らんから、作業は続いたらしいで。おとろしい話しやな。

 こないして大仏殿まで建てたけんど、それでも民衆の心は完全には掴み切れなんだ。寺院仏教は繁盛したけんど、どうにも民衆の根深い信仰の神さんを越えられん。

 そこで考え出された奥の手が本地垂迹(ホンジスイジャク)ゆう考えや。そもそも仏教界ゆうのは理論にかけてはそら勉強しとるで。そやからインドに始まって中国、朝鮮と生き抜いて、日本にまで伝わってきとんのや。偉い坊さんたちが集まって、どうにも勝てん神さんに対して編み出したんが、「本地垂迹」いうて、本地は元々のもの、垂迹ゆうたら仮のもんゆう考え方やった。それは、おまはんらが大事にしとる神さんいうのは、ほんまは仏さんが仮の姿になっとるだけやで、みんなほんまは仏さんやで。こない言うて、神さんの乗っ取りにかかったんや。ほしたらこれが、見事に成功した。これには、神さんの側からもすり寄っていった気配があるで。そら朝廷が庇護する仏教に逆ろうたら、神さんの首が飛ぶ時代やったもんな。

 そんでもこれは、よう考えてみたらジャンケンの後出しみたいなもんで、これまで神さんがなんぼえばっとっても勝てんわな。なにをしても、後からそれは仏さんの仮の姿や言うて名前を変えられるんやから。これを神仏習合や言う。明治の時代まで、この考えは続いたんやな。このへんから何でも有りの不思議な日本の信仰は始まっとると思うけんど、どうやろか。これで今でも、お寺と神社が仲良う居とる意味が分かったやろでが。神宮寺たらゆう奇妙な寺がある意味も、これで分かるわな。

 あら、また時間や。ほな続きはまたにするで。

塩爺の讃岐遍路譚 其の五 続・巡礼の話・本地垂迹(ホンジスイジャク)」

ほんまに、話しがあっちゃこっちゃして、すまんな。かんにんやで。
ほな、続きを行くでな。

熊野は古うから3山言うて、本宮、新宮、ほいで那智宮の3つがあるんは知っとるな? いつごろでけた(出来た)か聞かれても、爺にはよう分からん。はっきりしとんは、この辺りは古事記、日本書紀の中の神話の世界に関係が深こうて、イザナミノミコトの墓まであるそうなで。これは弥生人が渡来してくる前から、古い日本人が住んどった名残りや。

神話は渡来の大和の支配者が、自分たちを正当化する為に創ったもんやわな。神社も古い神さんの上に、新しい神さんの名前が被せられて、おまけに人間みたいに位まで付けられとる。例えば平安時代(859年)の神格付け(日本三代実録)のとき、丹生都比売(ニブツヒメ)神は従四位下とか、熊野速玉(ハヤタマ)神は従五位上とかみたいにな。神さんに位を付けるゆうんは、失礼な話しやわのう。もっと酷(ヒド)いのんは、この熊野本宮は明治まで、熊野川の中洲にしか建てられなんだんや。大水が出たら流されるの分かっとんのにな。ほんで何遍も流されて、明治22年になって堪りかねた氏子が願い出て、やっと今の山の上へ建てることが許されたそうな。これを見ても、神さんを支配しとったもんがおったことが、よう分かるわな。

ああ、こらまた、えらい話しがそれたのう。ご免で。

日本の国を支配するのに、仏教を利用する考えが奈良時代に広まった。国家仏教の誕生や。全国に寺院を建てて、貴族の力を見せつけようとしたんや。比叡山や高野山に真言密教の道場もでけた。修験道は、仏教と古い神道を混ぜたように発展してきた。ある本には、山岳仏教は平安時代の天台宗と真言宗による山岳修行である、ゆうて書かれとるで。

それでも仏さんだけでは、なかなか大衆の心まで届かなんだ。ほいで賢い学僧が考え出したんが、何べんもゆう「本地垂迹」の教えや。このええ例が、熊野の本宮・家都美御子(カツミミコ)神はほんまは阿弥陀如来の仮の名前、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美 (ムスビ)神は千手(センジュ)観音と言う風に、本地が仏で仮の垂迹(スイジャク)が神さんやゆうて、名前を2重にしてしもた。ついでやけんど、その神さんが目に見える姿を現したんは権現さんと言うそうや。人間でも神さんになったら、それからは権現の名が付くらしい。

ある文章を見ると「阿弥陀如来を本地とした家都美御子大神を主神とする本宮は、阿弥陀の極楽浄土とみなされ、その社殿は『証誠殿(ショウジョウデン=念仏者の極楽往生を証明する社殿の意)』と呼ばれ、そこに参詣すれば浄土往生が確実になるとされ、平安後期以降、浄土教の聖地として栄えた」そうじゃ。この意味、分かるでか? 見事な乗っ取りやな。

こんな日本人やから、キリスト教がきても平気で受け入れて、信者でもないのにクリスマスを祝って、数日後の元日はお寺や神社をハシゴして廻りよる。江戸時代、宣教師がバチカン本部へ、この国だけは宣教でけんゆうて敗北の報告をしたそうや。なんぼイエスの教えを説いても、にこにこ笑って頷いたお年寄りが、家へ帰ると相変わらず仏壇や神棚を拝んどる。1神教では、考えられんことやわな。あら、こんな時間や。続きは、またな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の六 「巡礼の話・浄土信仰」

 久し振りですな。元気でおいでたんな。

 こないだは日本の国の信仰が、神さんから仏さんに変わっていった話しをしましたわな。覚えとるでか?本地垂迹のこと。例えば「南無八幡大菩薩」いう言葉があるわな。この南無は梵語で、後に続く仏さんへの敬礼を意味しとるそうや。そやから大菩薩だけならええけんど、八幡さんいう神さんが入っとる。こないして、もう完全に仏さんに取り込まれてますわな。話しがややこしぃて、すんませんな。話しが長引いとるけんど、これを言うとかんことには、四国遍路の話がでけん。まだまだ話は脱線するけんど、気ぃ長ごう付きおうてな。ほな今日は、その続きを行くでか。

仏さんは何にでも姿を変えとる、そんな理屈で神さんの領域にまで滑り込んだんや。ここへ真言密教が加わった。これも山岳信仰と仏教の混じった教えが多いから、ますます神さんと仏さんの区別がつかんようになった。空海はんの戦略は、見事やったわな。国家のお墨付きを貰ろうて、加持祈祷、民間信仰、なんでも取り入れて威光を放つことに成功したんや。比叡山3千坊、高野山は1千坊ゆうて、お山は僧侶で溢れとったらしいけど、民衆にはどっか高嶺の花のような具合やった。エリートのための仏教や。

そやけど、世の中は戦や争いごとの多い世になって、京の都は飢えた行き倒れと病人で溢れかえるようになった。そんな平安時代の中頃、空也というお坊さんが生まれた。この人が学問ばかりの仏教教団から飛び出し、町へ出て飢えや病に苦しむ民衆を救うため、念仏を勧め、そのために念仏踊りを始めたそうな。お陰でそれはそれは貧しい人びとに慕われ、仕舞いには盗賊にまで尊敬されて、「市聖(イチノヒジリ)」と呼ばれたそうな。それが民衆へ仏教の広まる最初やと言われとるで。

やがて平安時代後期、貴族はしだいに権力を失って、いつ地頭などの武力集団に打ち破られるか分からず不安に怯え、そのうえ都の人口密度が高くなって流行り病による突然死も多くなったためか、この世の無常観を深めていったらしい。大衆のことなんぞそっちのけで、頼れるのは極楽浄土のあの世か、この世の権現さんの加護だけとなり、上皇たちの異常な熊野御幸(ギョウコウ)が始まったんやけど、そのことはもう話したわな。

もう、神さんでも仏さんでも何でもええ、助けてくれー、そないうて熊野詣でが続いた。

鎌倉時代になって、時宗の開祖一遍上人が「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」とゆうて、お札を配り念仏踊りで日本全国を熱狂の渦に巻き込んだそうじゃ。室町時代には、時宗の念仏聖たちが熊野の勧請権を独占し、それまで貴族が中心の熊野詣でを庶民の側へ広め、後の老若男女の「蟻の熊野詣」と言われる現象まで生み出したそうじゃ。

死ぬ想いをして、それでも極楽浄土を垣間見ることが出来るかも知れん、そんな空想に駆られた大衆は、もう止めることはでけん。これが日本の巡礼の始まりやな。高野聖も本山の財政を助ける為に、勧請の旅を全国へ広めていたけんど、これが四国遍路に結び付くのは、もっと後のことや。

あら、もうこんな時間、いかんいかん、今日はこれでな。

塩爺の讃岐遍路譚 其の七  「巡礼の話・これまでのおさらい」

さぁ、今日も元気で行くでか。これまで、信仰の始まりから移り変わりを、ごくごく大雑把に見てきましたわな。ほんでもまだ、よう分からんでか? なんせ喋っとるもんが素人やけん、ごめんな。ほなら、おさらいするのんにええ文章があったんで、紹介させてもらいますわ。本の名は「日本の原卿・熊野」(新潮社)ゆうて、梅原猛先生の書いたもんですわ。

「日本書紀によれば、仏教は欽明13年(552)に百済から伝えられたが、仏教渡来後二百年、天平勝宝4年(752)には大仏開眼が行われ、この二百年の間に仏教が完全に日本に定着したことを示した。この奈良仏教は都市仏教であったけれど、一方山林に住んで仏教を広める者もあった。(略)仏教を朝廷の力によって取り締まろうとした律令政府は、そういう政府の統制外にある山林に住んで仏教を広める僧を禁止しようとするが、再三にわたる政府の禁止命令にかかわらず、そういう僧は後を絶たなかったと思われる。行基もそういう僧であり、しきりに布教禁止の命が出されるが、行基の布教活動はとどめようもなく、ついに律令政府は大仏建立のときに、この行基の名声を利用しようとするのである。奈良仏教は、確かに主として貴族を布教の対象とした都市仏教に過ぎなかったが、しかしそういう山岳による民間仏教者のエネルギーを己の中に吸収するたくましさを持っていたのである。」こうやって、仏教は一般大衆に溶け込んでいったんやな。

「最澄、空海による天台・真言密教の開宗は仏教界に新しい風を入れるものであった。彼らは、それぞれ深山と言うべき比叡山・高野山を根拠地とし、土着の神に対して融和的態度をとった。最澄は日吉神社を、空海は丹生神社をそれぞれ土着の神として篤くあがめた。

このような思想の帰結として、神と仏とを共存させる信仰が起こった。それは結局、本地垂迹(ホンジスイジャク)説として現れる。つまり、インドの仏たちが姿を変えて日本に現れて、いろいろな神々になったというのである。こういう本地垂迹説によって仏たちと神々の共存が可能になり、それとともに日本独自の修験道というものが現れる。修験道というまさに仏教が土着の神道と混合して出来あがり、山を聖地として、回峰、すなわち山めぐりを主な宗教的な行事とする宗教である。」

さすがに梅原先生の文章は、よう分かりますな。ついでに、長ごうなるけんど、浄土宗の起こりも、詳しいので引用させてもらいますな。

 浄土教は本場インドでも中国でも廃れたのに、なんでか日本では10世紀に盛んになり「そして11世紀になって源信、12世紀になって法然・親鸞という思想家を生み出して、浄土教が日本仏教の中心になったのは一体どういうわけであったのだろうか。私は、日本人にとって山はもともと死者の住む場所であり、山を根拠とした仏教はそういう死者の霊と交わらずにはいられなくなり、古くから日本人の信仰の中心であるあの世信仰が、仏教のあの世信仰、すなわち浄土信仰と結びついたからではないかと思う。」
 
 熊野が別名で死の国と言われるのも、これで理解できますな。熊野に浄土がある、そんな幻想でわれもわれもと、人の波が「蟻」のように押し寄せたんやな。それでもって、信仰は偉いさんの手から、民衆の手に渡った。
 

今日も時間が来たな。ほんなら、いぬでな。
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