|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩爺の讃岐遍路譚 Vol.18 「民間信仰を広めた聖(ヒジリ)」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
きょうもええ天気で、よござんしたな。長いこと空海さんについて喋ったけんど、どなん考えたって不思議なお人やった。 その空海さんの後、平安時代末から江戸時代までの世の中の移り変わりを、これから何遍かに分けて見ることにしようでな。ほんまに田舎のおっさんやおばちゃんや、そんで若いおなごし(女衆)までが遍路旅に出られるようになったんは、ずっとあとの江戸時代からやといわれとるで。 ほんならほれまでの、世の中の移り変わりをまいっぺん見ようでな。 平安時代ゆうたら、桓武(カンム)天皇が都を平安京に移した794年から、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた1192年までの約400年間のことやいわれとります。その初めの時分(ジブン)に空海さんが生まれて、民衆のための宗教・真言密教を体系づけてくれたんやけんど、あっちこちの民衆に直接教えを伝えたんはその後の別の人たちらしい。高野聖とゆう人たちや。 昔からこの聖(ヒジリ)たらゆうもんが、全国を歩き回っとるげな。その代表が、行基(668-749)や空也(コウヤ903-972)と言われとるで。貴族や朝廷に護られた寺院仏教を嫌うて、ふたりとも乞食坊主になって民衆の中へ踏み込んで行ったそうな。これを聖(ヒジリ)ゆうたけんど、こなんした聖がようけおって、全国を歩き回ったんやな。ところが聖たらゆ(言)うんは仏教界のことばで、神さんのがわからゆうと、もともとはお日さんのはたらきを知って、稲作や気候の動きに精通した「日知り」又は「火知り」の役職からきとるんやとゆうておられる。どっちゃにしても、大衆を教え導く役割が仕事の人たちやったんやろな。 この聖の役割を、爺の教科書「四国遍路の民衆史」(山本和加子著)から詳しく写してみるで。 「民間への伝道活動にはさまざまな形をとる。空也の普及法は、金鼓を叩き、念仏を唱え、わかりやすく説法する。説法に歓喜した人びとは空也に一紙半銭のお布施をさしあげる。このように金品を受け取る行為は『勧進(カンジン)』と呼ばれた。/こうした民間伝道者は、室町時代まで数多く現れた。今日でも名が知られている人に、行基、空也、長源(チョウゲン)、法然、親鸞、一遍という人たちがいる。」 「空也を市聖(イチノヒジリ)、一遍を捨聖(ステヒジリ)というように、仏教を民間に広めていった人を聖と呼んだ。古代から寺院にはいれない、正式な僧と認められない下級の宗教者が相当いた。山中に入って練行し、苦行を重ね、山のもつ霊力を身につけた半僧半俗の人を優婆塞(ウバソク)とか頭陀(ズダ)とよんでいた。空海も青年時代、優婆塞に身をおいたことがある。山岳信仰や特殊な霊魂観、山中他界観、また陰陽道や道教もとり入れた修験道の道者も優婆塞と呼ばれた。修験者も頭陀巡礼し、呪術的な力を行使し、占筮(センゼイ)とか祈祷(キトウ)を行ない、民衆の現世利益の願いに応じたため、古くから民衆に親しまれていた。/平安時代の末ごろから、このような人や寺院で仏教を学んで野に下った仏教者も含め、総じて聖と呼ばれるようになった。」 どうな、こなんして日本全国を得体の知れん遊行者が、村から村へ渡っとったらしいで。その当時ゆうたら、世の中のことを知るチャンスもないし、狭い土地で生まれてその土地で死ぬだけの民衆がほとんどやった。この時分の様子をこの本は詳しいに書いとるけん、これも写しとくな。 「一遍上人絵伝(1299)をみると、一遍は近畿、四国、中国、北陸、関東、東北をくまなく行脚したが、いけどもいけども至る所、荒涼とした原野が展開する。人里は民家がまばらで、みな小さなあばら家であるが、町へ入ると壮麗な寺院や門をかまえた武家屋敷があり、農民の家とははっきり区別がつけられている。一遍の行くところ必ず人が集まっているが、いたる所に物乞いしている乞食の姿、道端の筵で寝ているあばら骨の病人の姿がある。飢餓、殺戮、疫病が日常茶飯事で、民衆はいつも死と隣り合わせで生きていたことがわかる。」 死んだり病気したりするんがなんでか原因が分からんと苦しんどる民衆に、聖が話す仏教の救いや極楽浄土や仏さん、それにえらいお坊さんの話は、夢みたいやったやろな。そなんして別世界へのあこがれが、大衆の胸に刻み込まれていったんや。死ぬまでに一遍は、見たり逢うたりしてみたいわな。聖はそのお使いやゆうて、大事にされたみたいやで。村へ来たら、VIP待遇や。 あら、又時間や。ほんだら、またな。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩爺の讃岐遍路譚 Vol.19 「武家社会から戦国、桃山時代まで」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
おいでまい。えろう難しげな話になっとるけんど、我慢してな。ほな今日も続きを行くで。 歴史の教科書を見たら、奈良時代の律令制度は、朝廷が公田(コウデン)を支配し、班田(ハンデン)を分け与えて成立しとったゆうて書いとるな。やがて公田を貴族が私田=荘園に取り込んで平安時代を迎えた。その貴族も力が弱まると不安に怯えて仏の加護にすがり、大寺院へ荘園や領地をどんどん寄進していった。そのあと武家集団が力を付けて、貴族や大寺院の荘園を強引に我がらの領地に換えていったげな。 承久(ジョウキュウ)の乱(1221)は、ほんな武家に対する貴族の反撃やったけんど失敗した。ほしたら勝った幕府側は、荘園の切り崩しをもっと徹底的にやった。その先頭に立ったんが地頭や。「泣く子と地頭には勝てん」ゆう公家や貴族の嘆きの言葉は、こん時にでけたんやな。 この時、広大な荘園で生きとった大寺院も真っ先に狙われて、地頭の侵略や荘民の年貢減免闘争に見舞われた。それまでみたいに経済援助で頼みの綱やった貴族も落ちぶれて、助けてはくれなんだ。財政難に見舞われて困った高野山の学侶方は、それまで蔑んでいた聖の勧進に頼るしかのうなった。頼まれた高野聖たちは、喜び勇んで全国へ勧進の旅に出て、一紙半銭の布施を集めて猛烈に山へ運んだそうな。 そして室町時代、この時代に手工業は発達し、貨幣と商業も盛んになったげな。現代日本の文化様式の基礎は、室町時代にでけたと言われとるで。遠い沖縄の石垣島でも、古い屋敷は日本の室町時代の様式が伝わって、その名残としていまでも残っとるげなで。 経済の発展とゆうことになったら、これまでずっと学問しとった大寺院は強かった。見とる間に経済の中心に進出して、商売の基本の「座」とゆうもんを支配してしもうた。そして、関所をあっちゃこっちゃに作っては、関銭を取って儲けまくったんやと。あちこちの寺社は、またまた強大になっていった。 こんな寺社の特権と横暴に立ち向こうたんが、天下統一の野望に燃える織田信長や。信長は商業と輸送の邪魔になっとる座の独占や、関所の乱立を取り除く「楽市楽座」策を打ち出した。手向かうもんは、それが神仏やっても大寺院やってもためらわん、片っ端から攻撃して焼き尽くした。 信長の攻戦で有名なんは、比叡山の焼き討ちと何千人もの斬り殺し、11年もかかった石山本願寺への攻撃やった。 こんな信長の後、天下統一を完成させた豊臣秀吉によって、関所の大半は消えたそうな。熊野や伊勢にもようけ関所があって、参詣者は難儀しとったげなけんど、これで楽になった。特に秀吉は、海の関所みたいな海賊を取り締まって、海路の便も良うしたんやと。 ここで、また山本和加子さんの本に戻るけんど、昔の旅をこなんゆうて書いとる。 「天皇や貴族の参詣の旅は、多数の供をひきつれ、自領の荘園から臨時に貢物を調達させ、傭人に運送させ、国人や荘宮の館を宿にして何日もかけてぜいたくな旅を重ねることができた。 修験や回国聖のきびしい修行の旅は、さすがにプロであるからとびぬけて健脚であり、嶽でも峰でもカモシカのように登ってしまうし、木の実を食べ、野宿も苦にしない。しかし一般人の旅は大変な困難がつきまとう。山賊や海賊に襲われ命の危険にさらされる。」 ここで巡礼の旅の条件が書かれとるで。「日本交通史家の新城常三氏によると、民衆が遠隔地へ参詣するためには最低必要条件があり、一つは旅宿の発達、一つは貨幣の流通、一つは陸上・海上交通の安全と発達、という三つの条件をあげている。」 こなんして16世紀の終わりごろ、秀吉が通貨の改革をして、重たい銅銭に代わって金貨、銀貨をつくった。これで長旅にも荷物は少のうて済むようになった。西国三十三観音霊場がでけたんもこのころらしい。ほれから後になって、民衆の眼が海を渡って四国へ向けられはじめたそうな。 いよいよ時代は徳川政権で全国統一が受け継がれ、戦から解放されて産業の発展と庶民のエネルギーが爆発を迎えるようになった。みんな動き始めるでぇ。 あら、また時間や。残念やけんど、ほんだら、またな。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩爺の讃岐遍路譚 Vol.20 「徳川時代の始まりと寺社参りの大衆化」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今日もお参りの帰りでか。ほんまに信心深いことやのう。まぁ、夜道に日は暮れんいうけん、ここでひと休みして、お茶でも飲んでいきまいだ。爺の話しは、行き当たりばったりやけんのう。吾(ワ)がでも話しがどこへ行きょんのか、よう判らんのや。ごめんやで。 ほしたらっと、どこまで話したんやったかいな。 そやそや、江戸時代になったんや。みんな江戸時代を天下太平の世とゆうけんど、それまでは庶民にとったら無茶苦茶の世界や。 「中世まで、戦のためどれほどの農民が苦しめられたか計り知れない。田畑は踏みつぶされ、兵士の略奪・強奪は日常茶飯事だったし、あまつさえ飢饉・災害は毎年のように襲ってきた。さらには神仏の祟りのように流行病が蔓延し、その上、年貢・徴用は手加減なく行われる。いったい年貢の行方はどうなっていたのか。年貢を費やす上層の人間があまりに多い。皇族・堂上(ドウジョウ=殿上人)・地下(ジゲ=宮殿へ入れない身分)・武家・社寺の宗教者・僧兵・地方豪族・地方役人等々。これら非生産階層が、農民の租税をむさぼっていたというのが実情であった。」とは、山本和加子さんの本の文章やけんど、なんや族議員と役人、芸能人、それに対するサラリーマンに置き換えたら、今の世相に似てこんでか? この非生産階層のほとんどが、江戸時代には一掃されて、余った武士たちは農民に帰って行ったげな。戦さの技術は農業土木へ振り向けられて、運河や護岸工事が行われて、農耕生産は飛躍的に増加したんやと。米、木綿、油、藍、塩、酒、どれもこれもようけ造られた。海上航路も整備され、それまでの重とうて弱い筵(ムシロ)帆から軽うて丈夫な木綿帆になって遠路航海がでけるようにもなった。 こうなったら、あっちゃこっちゃで人手が要るようになって、仕事のない山奥や山陰、遠国からの出稼ぎが増えてきたらしい。ほんでもまだ時代は、封建時代や。農民が他国へ出稼ぎに行くんは、難しかったげなで。はじめに庄屋へ申し出て、目的と行き先を届け出ないかん。ほしたら庄屋は郡役所の許可をもらう。それから人別帳に書き込んで、往来手形を手渡す。 領主とかお上は、ほんまは農民に出稼ぎには行ってもらいとうないけんど、藩財政を潤すためにはその収入も欲しかった。領民の商業利益からの運上金や冥加金・口銭の収入は馬鹿にでけん。こなんなると、農民も商人も、換金作物の生産とその流通をめぐってがいに(強く)動き出したんやと。 人が動いたら情報も動くでな。なんちゃ知らなんだ庶民が、昔、旅の僧や聖から夢物語みたいに聞いとった都や他国の寺社を知る機会も増えた。ほんで村から離れる方法をいっぺん体験したら、今度は参詣行動を積極的に実行しはじめたらしい。これが巡礼の大衆化や。 「慶安3年(1650年)、ちょうど『慶安の御触書』が出た翌年、伊勢神宮では爆発的な『御陰参り』が起こる。これは『抜け参り』ともいい、子は親に、妻は夫に、奉公人は主人に断りなく、白衣を着て家をぬけ出し、伊勢参りするものがあいついだのである」(四国遍路の民衆史より) 民衆の参詣行動は伊勢参りだけでのうて、各地の霊場巡りに移っていったげな。 ほんで、歴史の本を見たら徳川時代は慶長8(1603)年からやいわれとる。そやけんど関ヶ原の合戦は1600年やけん、実質徳川支配はこの1600年からやろな。慶長8年は江戸幕府を開いたゆうことや。とゆうても、大阪夏の陣が終わるんが慶長20(1615)年・元和(ゲンナ)元年やけん、地盤を固めるんに12年掛かっとるな。 慶長20年になって地盤が固まったら、さあ、ようけ御法度(ゴハット)たらゆうもんを出して、あれをしたらいかん、これもしたらいかんゆうて世の中に縛りを掛けてきとるで。 なかでも有名なんは、夏の陣が終わって7月7日・徳川秀忠が伏見城で武家諸法度13ヶ条を発布したんを皮切りに、7月13日・年号を「元和(ゲンナ)」に改元、7月17日・幕府は二条城で禁中並公家諸法度を布告、7月24日・徳川家康が諸宗寺院法度を布告したそうな。一国一城令もこの年や。なんと家康はこの翌年に亡くなっとるけん、死ぬ間際まで院政みたいなんを敷いとったんがよう分かるでな。狸親父やゆわれる訳や。 この中で、寺社に対する統制ゆうたら寺院法度(ハット)の「本末制度」が重要やったわな。これでいままでみたいに誰でもが自由な開祖はでけんようになってしもうた。地方の寺院はみな本山に所属せないかんようになった。大本山−中本山−直末寺−孫末寺とゆう本末組織をつくらして、まんで(すべて)幕府の支配下においたんや。このとき、大寺院に属しとらん正式の僧でない「聖」たら言うんは存在が許されんようになって還俗させられ、山から追い出されてしもた。行き場のないもんは、どっかの村の百姓か職人にならされた。農民は「宗門人別帳」に全家族と奉公人の名前、年齢、所属寺院を書かされた。後世の戸籍簿の基やな。これで漂泊の民以外の日本人のほとんどが、仏教徒にさせられてしもうたんや。キリシタンの禁教令は、この3年前の慶長17(1612)年に出されとる。 「宗門人別帳の手続きは、一家を代表する戸主が捺印し、さらに庄屋が捺印し、最後に檀那寺が捺印して完了する。村民は一度加入させられた檀那寺の寺替えは許されず、檀家として檀那寺にかかわる物入(維持費)を納めることを義務付けられた。」(四国遍路の民衆史より) おまはんら、知っとるでか。21世紀のいまでも、古い集落では寺からしょっちゅう集金が来とるんで。年寄りは黙って払ろうとるでな。 こなんして世の中が泰平になってきたら、これまでの武器製造で発達しとった技術を基にして、農耕技術が進歩してきたんやと。百姓の生活もちょっとづつ豊かになって、ほんで娯楽や快楽に関心が向かい始めた。ほしたらや、こなんことしとったら年貢が取れんようになるけん、前にも書いたけんど贅沢禁止のお触れ「慶安(1649)の御触書」が出た。そんだけ贅沢がお上の目についたゆうことやわな。百姓が米や豆腐を食うのはいかん、雑穀を食べさせろとか、朝から晩(バン)まで働け、そんで大茶を飲んだり、寺参りしたり、遊山が好きな女房は離別させろ、果ては食の足しにもならんタバコは禁止すべきや、ゆう厳しい内容やった。 これでみても、寺社参りが普通になりかけとんのが、よう分かるでな。前にも書いたけんど、伊勢神宮での爆発的な「御陰(オカゲ)参り」が起きたんは、御触書の翌年・慶安3年やった。民衆のエネルギーが溜まると爆発するこの御陰参りは、これからだいたい60年に1回の割で起こっとるげな。宝永4(1705)年、明和8(1771)年、天保元(1830)年、ほんで明治維新前の慶応3(1867)年に起こった「ええじゃないか」騒動につながるらしい。余談やけんど、この慶応3年に生まれた有名人は、ほらようけおるで。尾崎紅葉、夏目漱石、正岡子規、南方熊楠、宮武外骨、伊東忠太、書いたら切りがないくらいや。興味のあるお人は、一ぺん調べてみてんまい。面白いで。 閑話休題(話を元に戻すことの意味) こなんした大衆の動きが活発化した時代、京都の智積院の僧・澄禅(チョウゼン)の「四国辺路日記」ゆうんが書かれたげなで。これが一番古い四国遍路の記録や言われとる。承応(ジョウオウ)2 (1653) 年に四国遍路へ向こうたらしい。この頃の四国はまだ死国に近い道路事情や。澄禅はんは、高野山小田原谷に住んどった元高野聖やったらしい。寺院法度で真っ先に真言宗大寺院が整理に会うたらしいけんど、澄禅はんもたぶんそんで京都の寺へ移ったんやろな。そこからの遍路旅や。その時分は、まだ路も整理されとらんけん、遍路旅とゆうより修行そのもんやな。 とゆうたところで、今夜(こいさ)も時間や。遅うなったけん、これまでにしとくでな。次からはほんまに四国遍路の旅や。 ほしたらまた逢おうで。気ぃつけてな。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩爺の讃岐遍路譚 Vol.21 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読む@」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ようお出でましたな。爺のはなし、退屈せんでか? おまはんらも、なんやらへんねし(変わり者)のひとりげなな。まぁええで。話し聴いてくれるんは、嬉しいで。ほしたら、ぼちぼち往くでか。 ここからは、いよいよ四国遍路の旅日記になるで。ほしたらまた、山本和加子先生の「四国遍路の民衆史」を読むわな。 「江戸時代以前は、その道のプロである修行僧の遍路が大部分を占めていたが、それがどのように行われていたか。その手がかりとなる京都智積院の澄禅(チョウゼン)という僧の『四国辺路日記』をみていきたい。遍路に出たのは承応(ジョウオウ)2(1653)年である。 承応2年という時期は、江戸幕府が成立して50年たったころで、幕府は成立したとはいえ、豊臣方の大名の処置、大名の配置、キリシタン弾圧、鎖国政策、貨幣制度、五街道の整備等々、統一政権の地固めに大わらわの時期であった。」 「承応(ジョウオウ)2(1653)年7月18日、澄禅は高野山の宝亀院から通行証をもらい、紀州和歌山に着き1泊し、船出を待ったが波高く、静まるのを待って24日に船出した。 小田原行人衆(顔見知りの小田原谷の元聖仲間らしい)10数人も同乗していた。阿波徳島の港に着き、城下町の持明院から廻り手形(入国許可証)をもらう。」 と、まあ、こなんなあんばいやけんど、これからが難行の始まりや。ところで、これから廻る寺に番号が付けられとるけんど、この時代にはまだ札所の番号は無かったげな。山本先生が便宜上、付けてくれたもんと思うで。 四国八十八ヶ所ゆう呼び名の方だけは、この時分もうあったみたいやけんど、どの寺が何番かはずっと後の貞享四(1687)年、眞念という浪速の人がガイドブックを造るとき、具体的に決めたらしい。ほんだけん、以前に書いたけんど、四国遍路は熊野詣での弟分で九十九王子のひとつ格下の八十八にしたという語呂合わせ説、なんや本気にしとうなるな。あの時分は近畿中心の文化やったし、船便で阿波へ渡るんが普通で、その中継地が淡(阿波)路島やわな。ほんで1番寺が阿波から始まっとるのも、道理やで。 ほな、当時の遍路旅の苦しいんがよう判ると思うけん、山本先生の本をそのまま書き写すでな。 「霊山寺から初めて阿波北分十ケ寺を巡るべきだが、道が悪く井土(戸)寺(17番)から始めた。つぎの観音寺(16番)は朽ちはて柱は傾いていた。国分寺(15番)も常楽寺(14番)も小さな草堂であった。一ノ宮(13番)は拝殿があり、札を納め念誦看経して、川を歩渡りして坂を二十余町(1町は109メートル)上ると阿波一国が見渡せた。その晩は民家に一泊したが、民家の夫婦は情け深くて饗応慇懃(キョウオウインギン)であった。翌朝向かった藤井寺(11番)は、3間四方の草堂で脇に朽ちた仏像が山と積まれ、住僧が仏像修理の勤行を求めたので少し奉加した。」 「阿波無双の難所である焼山寺(12番)に向かったが、山の峯は雲より高く、上りつめて峠の上に立ってみると、また先にもっと高い山がある。谷へ下って少し休んで再び山を上りつめると、向こうの山に寺楼が見えた。やれうれしやと思うと、寺との間にまた深い谷があり、道は谷の底に見えるというぐあいである。飯を食べ、気をとり直して谷へ下り、三十町上って寺にたどりついたが、本堂は再興されて、御影(ミエ)堂もあった。奥の院はさらに山の上にある。十人ばかり同行者があって、その中から引導の僧に白銀二銭出して先達になってもらい、山上を巡拝した。下ってから焼山寺に泊まり、翌朝下山した。一ノ宮へ戻り、三里の間に二〜三十回も細川を渡って民家に泊まった。」 この時分の徳島市から鳴門一帯は吉野川河口の遊水池の氾濫地帯で、平地は潮の満ち引きが一杯やった。いまは板野郡ゆう地名やけんど、これは潮の野原のことや。関東でも潮来(イタコ)ゆうやろ。潮野が板野になったらしいんや。 普通やったら和歌山から鳴門へ上陸するんやのに、澄禅はんは徳島市へ上陸したんやな。 あら、今日も時間や。次はこれから南へ下って、土佐へ行く旅や。ほしたらな。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩爺の讃岐遍路譚 Vol.22 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読むA」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なんやこの遍路譚が、初めて四国のお遍路さんの旅の話らしいになってきたな。ほしたら、続けて小松島市の立江寺へ向かうで。ゆうとくけんど、時代は江戸時代の初めころやで。 「立江寺(19番)から鶴林寺(20番)までは入江が寺の奥まで入っている低地で、高い山上まで潮垂(シオタレ)れて行くかと思うと、草むす山道を上っていく。寺からさらに二里先の奥の院へ上っていき、奥の院から下って途中、愛染院に一宿する。 夜雨が降り、翌朝下っていくと大河に出会った。水かさが増して渡し船はない。上下する舟人に向かって手を合わせ、ひざまづき頭をさげ、ふたとき(四時間)ばかりお願いしつづけ、やっと舟で渡らせてもらうことができた。 その先は深谷で人里なく、細川を渡って大きな坂を上り、太龍寺(21番)に着いた。備前の衆聞寺の行者八人と会い、その中から引導の僧に白銀二銭をあげて先達になってもらい、松明(タイマツ)を持って進み、秘所を巡拝した。深谷の不動堂は恐ろしき所であった。みな慈救の呪を高唱して奥へ進むと、コウモリが幾千万となく向こうへ飛んでいった。岩屋の中三尺たらずの所を這って前進すると、そこに一尺二〜三寸の金銅の不動尊があり、みなで呪を誦じた。それから平等寺(22番)へ向かった。」 この大河ゆうたら那賀川やろな。ここいらがどの辺か判るでか? 今の阿南市付近やな。空海さんが修行したと三教指帰(サンゴウシイキ)に書いとられた太龍寺(タイリュウジ)や。この太龍寺は西の高野言われるくらいやけん、やっぱし難所やな。これから薬王っさんを詣って室戸へ向かうんやけんど、ここからはまんで山また山の獣道(ケモノミチ)だらけや。ほんでも海部(カイフ)ゆう地名があるけん、律令時代から朝廷へ海産物の献納はしとったらしい。海部あたりで魚売りを「いただきさん」ゆうけんど、高松でも同じや。船での行き来があった名残やと。この辺の交通の便は、みんな舟やった。土佐日記で有名な紀貫之さんも、都と土佐の行き帰りは舟の旅やったわな。 「平等寺を打ち終わってまもなく行くと大河があり、帯をぬらすほどの洪水の中を渡って河辺の民家に一宿する。薬王寺(二十三番)から地蔵寺まで五里の道も海にかかる細道を上下する難所であった。海部の大師堂(辺路屋)で札を納める。海部の前で大河に出会う。渡し守はなくて浅い所は歩渡りしたが、深い所は上下する舟に便船を乞うた。観音寺・薬師院・唱満院の真言宗の寺を経て鹿喰(シシクイ)に着く。阿波の太守が命じた無料の辺路屋があり、野根に行くとここにも藩提供の大師堂兼辺路屋があった。」 一般大衆までいかんけんど、この時分も行者や修行僧や逃亡者や隠者、その他訳の分からんもんがようけ歩いとったんやな。中世時代の絵巻もんでも、得体の知れん覆面者が歩いとるでな。学者先生も、あれは何やらよう判らんゆうとられる。藩を預かる殿様も、遍路の保護には神経を使こうとったんが「阿波の太守が命じた無料の辺路屋があり」ゆう説明からもよう判るでな。ほして、これから土佐の国や。 「土州(土佐)に入ると、飛び石・子石という所の三里ほどの難所があり、民家は一つもなかった。室戸岬に向かう道で、鞠(マリ)ほどの石を敷きつめたような山をとび越えとび越えていったが、上の山にはいくつも重なっている大石が今にも落ちてくるかと思われるような危険な所である。そこは岩肌に爪をたてて通ったが、三里もある長い難所だった。仏崎で石を積み重ねた所に札を納め読経念仏した。ここから七里先まで、米一粒もないという食糧の乏しい村々を行った。岬の東寺・津寺・西寺(二十四,二十五,二十六番)を巡る。ここは大師が御修行なされた求聞寺堂がある。由緒ある石像・堂のすべてを巡った。」 室戸岬の二十四番は普通、最御崎寺(ホツミサキジ)やけんど、ここでは東寺になっとるな。 ひまつぶしに、面白い話をひとつするで。今の高知県東洋町から室戸岬へ行く途中に、佐喜浜ゆう地区があるけんど、ここの国道に横断地下道があるの知っとるでか?道幅はたったの5、6mくらいの狭いところで、車もめったに通らん国道やけんど、なんでか知らん横断地下道があるんや。あれ、笑うで。歩きの方は、ぜひ見付けていた。ほんで意味が判ったら、教えて欲しいな。沖縄のこんまい(ちいさい)島には車の交通がほとんどない学校の前の道路に、教育的体験施設ゆうことで信号機があるけんど、あれと同じ意味やろか? 長ごうなってしもた。今日はここまでにしとくで。ほな、またな。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩爺の讃岐遍路譚 Vol.23 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読むB」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ようお出でました。旅は土佐の国になっとるで。何遍もゆうけんど、時代は徳川の初めころや。交通は馬も車もない、海辺の海岸沿いか、山のけもの道をたどるようなもんを想像しもって行こうでな。 「八月十一日、大日寺(二十八番)から土州国分寺(二十九番)まで三日かかった。国分寺近くに眠り川という、一睡の間に洪水になるという川に出会った。舟でも渡れない大水である。暮れまで待ったが雨は止まず、近くの田嶋寺一泊。ここの住僧はもと高野山にいたという人で、互いに酒を汲みかわす。古寺のため雨もりして枕がぬれて眠れなかった。」 前回の室戸から、もう安芸市、南国市へ入っとるで。この辺の大きょい川ゆうたらたぶん物部川やろな。27番の神峰(コウノミネ)寺が抜けとるけんど、番号はもっと後から付けられたんやけんしょうがないでな。距離の割に寺がすけ(少)ないんは、そんだけ人口密度が低い未開地やったんやろな。 「雨の中を高知城下の寺々で五日間逗留する。どの寺も太守の命令で立派に再興してあり、とくに五台山(竹林寺・三十一番)は美麗を尽くしていた。高福寺(三十三番)から清瀧寺(三十五番)まで渡りにくい川を歩き、新居戸の渡りという川に出る。五日以上、川留めになっていたので、多人数舟に乗り込んだため、足を踏みはずして男女四人、満水の川にのまれて死んだ。」 「八月二十九日、清龍寺(三十六番)より新田五社(三十七番岩間寺)までの間、悪しき川あり、坂つづきの難所である。カトヤ坂という大坂を越え焼坂を越えると、さらに十倍もの土佐無双の大坂がある。上って下って川を渡ってまた上って下る。平地はほとんどない十三里の道のりであった。」 高知市から須崎市、土佐市の山道やな。青龍寺は土佐市で、横綱朝青龍が世話になり、名前をいただいた寺やそうな。 ついでやけん、ここで太守ゆうたら、時代的には山之内一豊(1600年に初代土佐藩主・1605年没)の次の代・忠義になるで。澄禅さんが旅に出たんが1653年で、山之内忠義が隠居するんが1656年、あの名家老の野中兼山が絶頂の時や。藩の改革が進んで、寺も立派に再建でけたんやろな。けんど主君忠義が隠居したら、途端に反逆者ゆうて切腹させられとる。この野中兼山については、大原富江さんの「婉(エン)という女」ゆう小説に詳しいけん、それを読んでいた。封建時代の理不尽さが見事に描き出されとって、そらぁ壮絶な内容やで。 「九月二日、坂を上って下って川を渡り田浦という浜へ出た。一面の砂浜で、海士(アマ)どもが塩焼きの仕事をしていた。男女の区別がつかず、女らしき者は児を脇にはさんで仕事をし、潮を汲むときは児は白浜に放置したままであった。長い柄で潮を砂上にまいている有様で、まことに浮世を渡る稼業は並大抵のものではないと思った。」 ここはどうやら土佐中村の手前の田野浦げなな。炎天下で働く里人が、男女の区別がつかんゆうとるけんど、ちょびっと前までの日本の田舎でも当たり前やったで。漁師町のうちの婆さんなんども、夏は腰布ひとつで裸やった。男もおなごも赤銅色や。 「大雨大風つづきになる。峯から谷に大石が落ちて歩きようがない。やっとのことで一瀬という所へ着いた。足摺山へはまだ七里先という。五日間かかって足摺についた。足摺山は補陀落世界にて本尊は千手観音、大師の御影、ビンツル(ビンズル)、鎮守熊野権現、薬師堂、役ノ行者堂、宝蔵すべてある。岬を巡ると刃の如き岩石もある。そこで出発のとき一緒だった高野の辺路衆に再会した。逆打ちで巡っていたのだ。互いに涙を流して無事を喜び合った。」 ここに書かれとるビンズル、爺も知らなんだ。なんでも羅漢さんのひとりで、頭を撫でたら除病の御利益があるんやとな。足摺の寺名が書かれとらんけんど、ここは今の三十八番金剛福寺や。 これで土佐の国は終わりや。これから伊予の国、ほんで讃岐へと続くけんど、これからは山本先生が疲れたのか、たいして険しい内容の記述がなかったんか、えらい簡潔に終わっとる。原本を知らんけん、爺も補足でけん。 ほしたら、この澄禅さんの四国辺路日記もあと2回で終わるで。その次は、まだまだ興味深いお話しが、この「四国遍路の民衆史」には書かれとるけん、紹介させてもらうで。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩爺の讃岐遍路譚 Vol.24 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読むC」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なんや長い付き合いになっとりますな。この爺の訳の分からんもんに、よう付きおうてくれて、ありがとで。ほしたら、澄禅さんの旅を行くでか。 「九月九日伊予に入る。宿毛(スクモ)より寺山(三十九番延光寺)に着く。足摺より十三里である。御月山に寄ったので十六里になった。宇和島の城下の追手門の所に大師堂の辺路宿があった。ここの城主は政道正しく、新道をつくり、辺路修行者といえば、どこも宿を貸してくれる。八幡宮に詣で稲荷社に寄る。」 土佐中村、土佐清水、ほして宿毛から愛媛県へ入り、西宇和海のリアス式海岸地帯を抜けて宇和島へ着く。この間に寺はほとんど無いな。足摺がなかったら、旅は楽やったやろけんど、そこが辺路旅の大事なとこや。空海さんも、人影のない荒野を求めて放浪したんやし、それを追体験するんが辺路旅や。我慢せないかんわな。 「九月十六日、卯ノ町に着いて庄屋清右衛門宅に一泊する。この主は高野山小田原湯谷の証井院の旦那であった。辺路も数回したという信心深い人で、ていねいにもてなしてくれた。伊予内ノ子町より坂を越え川を渡り、東北への道は辺路用の道があった。民家の宿もある。坂を上り峠を下ると久間(久万)の菅生山(四十四番大宝寺)に着く。赤石寺より二十一里であった。大宝寺は禁裏に聞こえて勅願寺となった立派な寺である。住職は天台宗であった。つぎの岩屋寺(四十五番)は真言宗であるが、六十六部回国の経奉納所でもある。当山本坊に泊まる。岩屋寺から北方、松山城下へ向かって遍路みちを行く。」 宇和島から卯之町、野村、大洲、内子、ほして久万町へ抜けとるらしいけんど、これももの凄い深山やで。久万は四国のチベットと呼ばれとる。山の尾根が重なって曲がって見える。この曲がるのをクマと呼ぶ、とゆうんは柳田国男先生の説や。千曲川がええ例や、と。これから道後温泉のある松山や。 ここで六十六部たらゆうんが出てきたけんど、この六十六部(ロクジュウロクブ)は聖の一種らしいな。鎌倉時代に始まったらしいで。法華経を全国66箇国の霊所へ奉納して歩いたらしいけんど、場所に決まりはないし、訳がよう判らんらしい。仕舞には六部ゆうて、物もらいの乞食の代名詞にまでなっとる。 「八坂寺(四十七番)、西林寺(四十八番)を経て、九月二十四日夕刻、道で会った人に、ぜひともわが家へ泊まってくれといわれる。武知仁兵衛という。その人の家は百姓家であったが、奥に立派な書院があり、その奥に持仏堂があった。阿弥陀如来と大師御影と両親の位牌が安置されてある。終夜饗応、言語に尽くせないもてなしを受けた。石手寺(五十一番)の十町先に温泉(道後温泉)があった。湯壺は上中下の三つがあり、上は侍・出家が入り、中は女、下は雑人ども。自国他国から悪瘡かきの人は下に入り込む。」 ここが有名な道後温泉や。あの聖徳太子も入ったゆわれるけん、古い温泉やな。今でも3つの区別があって、普通は神の湯、それに女湯、霊の湯となっとる。この文章で面白いんは、侍と出家が同等になっとることや。坊さんも格が上がったんやな。それと、女湯が確立されとんのも意外やな。あの時分は混浴が普通やのにな。 「九月二十八日、円明(延命?)寺(五十四番)を打って一里先の別宮の三嶋に至る。なおこれより七里先の大三嶋という島に本宮があって、本式の辺路ならばその島へ行って納札すべきであるが、今は略してしまっている。」 大三島は大山祇(オオヤマズミ)神社のことで、この時分は神社も奉納の対象になっとったんが判るで。この大山祇神社の宝物殿の太刀や鎧はもの凄い。源頼朝や義経の奉納した太刀もあるそうな。 「十月三日、横峰寺(六十番)にかかる。ここは霊峰石鎚山の前神寺であり、難所である。大坂を上ると二王門があった。南西に五丁ほど上ると鳥居がある。ここで石鎚山を拝して納札、読経を念ず。山々はみな雪であった。」 石鎚山は空海さんが修行した地として有名やわな。西日本一高い山や。 「三角寺(六十五番)は伊予第一の大坂のある難所である。三十丁の大坂を上りつめてようやく着いた。これより奥ノ院へ大坂を越えていく。近ごろ辺路修行者の中には奥ノ院を参詣する人は稀になったという。山道のところどころに草を結んで道を示している。草のつるをつかんでは、小石まじりの赤土の坂を下っていく。巌石の間は鳥も飛べまいと思える所であった。鎮守権現の祠あり、そこへ泊まる。」 なんや山岳信仰の山伏修行に似てくるで。 これで伊予の国も終わりや。ほしたら次はようよう讃岐や。日本一狭い国やけん、禅澄はんもすいすいと行けたんか、山本先生がはしょったんか、ごくごく簡単にしか書かれとらん。 次で澄禅さんの「四国辺路日記」は終わるで。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩爺の讃岐遍路譚 Vol.25 「澄禅(チョウゼン)の四国辺路日記を読むD」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
さぁ、四国辺路の終わりの旅や。ほしたら山本先生の本を読むで! 「翌十月八日、おそろしき山の崖を伝わって行くが、足を踏む所がない。崖は霜でおおわれていた。 伊予より讃岐へ入る。雲辺寺(六十六番)の坂にかかる。この坂は三角寺の三倍ある大坂であつた。上り上りて嶽に至れば、雲は下の方にあり、寒風がはげしく水は凍っていた。この寺に一泊し、翌日、北の尾根先から下って行った。道らしき道はなく、草木茂って笠も荷もひき裂かれた。」 「十月二十二日、大窪寺(八十八番)に一泊して翌日、谷川を下り、山中の細道は闇夜を行くより暗かった。これより再び阿波に入り、切幡寺(十番)より黒谷寺(四番大日寺)まで5寺(九、八、七、六、五番)を打つ。どの寺も衰微して朽ちていた。金泉寺より極楽寺(三、二番)、霊仙寺(一番)と巡り納札成就する。それより鳴瀬(鳴門)へ出て船に乗り、十月二十八日和歌山に着いた。」 どうにも、讃岐の寺がまんでがん抜けとる。原本を知らんけん、どうにもならんでが。こらえていたよ。 「こうして澄禅の遍路の旅は、七月二十五日より十月二十六日まで九十二日間の長旅であった。何ともすさまじい辛苦の連続である。 日記の最後には、『札所八十八ヶ所、道四百八十八里、河四百八十八瀬、坂四百八十八坂』と結んでいる。川も坂も四百八十八といっているが、それほど多数あったという意味であろう」 これでみても、八十八は具体的な数でないことが判るでな。四百は四国に掛けとるような気がするけんど、これは考えすぎやろか。 「澄禅の日記は相当の量であり、各寺の由緒も歴史も実施調査も詳細をきわめて正確なものと思われる。修行も学問も積んだ人であろう。紹介した部分は、ところどころかいつまんだものであるが、巡礼修行のきびしさはそれでも十分うかがえると思う。」 これで讃岐の説明が抜けとんのが判った。山本先生は、旅の厳しさを書きたかったんで、讃岐平野ではそれはないでな。 ほしたら最後に、山本先生の文章を要約して、この辺路日記を終わるでな。 「澄禅は修行のプロ。同業者のよしみで寺側も快く泊まらせてくれたが、一般人には寺は開放してくれない。一般の民家も澄禅のような僧なら尊敬の念から快く宿を貸してくれるが、そのような人たちは信仰心が厚い人で、もてなしながら澄禅の法話を熱心に聞き入ったことであろう。かっての聖と信者の関係のように。一般の遍路の場合はこうはいくまい。寺にも民家にも泊まれなければ、野宿するしかないのである。」 澄禅はプロとして健脚やった。ほんでも山坂と川の多さに泣いたげな。 「灼けるような暑さと、ちぎれるような寒風、行乞であるから食もままならず、空腹の日もさぞ多かったであろう。長い行程の土佐には米の一粒もむない土地もあった。疲労のための発熱、下痢、足のけがもあったであろう。 このような苦難さをもっと増幅させているのは寺の多さだ。澄禅の日記の結びに『札所八十八ヶ所』と明記している。しかし澄禅は各寺の奥の院はもちろん、そのほかにも三十以上の寺も巡っている。巡拝する寺は多ければ多いほどいいのである。当時四国にどのくらい寺があったか、二千寺ほどあったかも知れない。その中から『弘法大師ゆかりの寺』というあいまいな基準で、いかなる過程を得て札所が決まったかはわからないが、ともかく数多く巡るのが遍路のあるべき姿だった。」 「このような形で巡拝したら素人なら半年以上かかり、存命であるかどうかもおぼつかない。まさに四国遍路行とは『生存の極限に身を託す旅』であったのだ。」 「澄禅の『辺路日記』は四国遍路に関心を寄せる人に写本されて読まれたようである。ここに使用した澄禅日記は、正徳四年(1714)に写本されたものを、近藤喜博氏が宮城県塩釜神社の文庫で発見したものだという。」 やれやれ、やっと江戸時代初期の遍路旅が終わったで。 これからどないしょうか、迷うとる。ノブサさんから各札所とお大師様との関わりを書いて欲しいゆうご希望もあるけんど、正直ゆうてこれはむつかしい。どしてかゆうたら、お大師さんのは伝説がほとんどで、それを書いたら夢を壊すことになるで。それよか、杖を立てたら泉が湧いたとか、芋が石になったとかゆう話は、伝説としてそっとしときます。 ひつこいようやけんど、この山本先生の「四国遍路の民衆史」は奥の深いご本ですわ。まだまだ面白いテーマがようけ残っとります。これが絶版になっとるのがもったいないけん、もうちょびっとここに書かれとることを紹介させてもらいます。 誰かがパクリやゆうたけんど、これはほんまやけんしょうがない。許していたな。ほしたら、次のテーマはどれにしようか迷うとるけんど、だいたい決まっとるけん期待して待っといていたな。 |