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塩爺の『讃岐遍路譚』
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塩爺の『讃岐遍路譚』Vol.12〜


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.12 「空海さんの話(幼少の頃)」

 ほんならいよいよ、空海さんに話しを進めるけんど、これはちょっと難し過ぎて爺の手には負えんかも知れんで。伝説的なお人やけん、とにかくいろんな説があって、どれがほんまかよう分からん。

まず生まれた年からにして、宝亀4年(773)と5年(774)とに分かれとる。5年生まれゆうのんは、空海さんが中国の偉いお坊さん不空三蔵(705-774)の生まれ変わりやいうことからや。この不空さんの死んだんが774年やけん、それより前の年に生まれたら、ぐわい(具合)が悪い。そらそうやな。そやから宝亀5年生まれ説が多いらしい。不空ゆう人は、空海さんに正式な真言密教を教えてくれた中国の恵果和尚(エカ又はケイカカショウ)のお師匠さんにあたるお人やそうな。

次に空海さんの生まれた場所や。讃岐の善通寺というのんが通説やけんど、違うゆう説がある。善通寺は父親、佐伯直田公(サエキノアタイタギミ)の屋敷があるところで、その時分(ジブン)母親は里へ帰って生むんが普通やけん今の多度津町海岸寺生まれやゆうんや。どっちゃにしても育ったんは善通寺や。幼名「真魚(マオ又はマイヨ)」ゆうて、頭が良かったらしいで。

空海さんのこんまいときは母親の兄、阿刀大足(アトノオオタリ)ゆう偉い儒学者(後に桓武天皇の皇子、伊予親王の個人教授をつとめた人)に読み書きを教わり、15歳で南都奈良へ連れていってもろて勉学し、18歳で大学へ進んだそうや。田舎でくすぶっとる一族や父母が夢見る都での出世の期待を一身に受けて、それはもう死に物狂いで勉強したらしいで。明経道(ミョウギョウドウ)ゆうて、経書を教科書にした儒教の勉強で、ここを出たら立派な役人になれる筈やった。真魚は余裕があってか、または将来必要があると信じたからか音韻道も習ろうたらしい。中国語のマスターや。

ただ、この大学へ入ったゆう説に対して、いや、地方では名家といわれても所詮直(アタイ)程度の身分(地方長官)の子供では、地方の国学へ入れても都の大学へは入れなんだ。そやから聴講生扱いやったゆう説もあるで。そんでなんぼ勉強したって貴族社会の身分差別の壁は厚うて、出世の望みは薄かったゆうんや。なんや、近年の封建社会みたいやな。ほんでもこれ、奈良時代の話やで。そやけんど、猛勉強したんは確かや。頭が良うて身内から期待されるし、意欲に燃えた青年やから、勉強したやろな。大学へ入ったかどうか、どっちゃでもええでな。

 ところが思春期の少年真魚は、鋭い感性で悩み抜いて、あるとき生き方を変えるんや。これには近所に住んどった遠縁(?)の長老、佐伯宿禰今毛人(サエキノスクネイマエミシ)の影響が大きかったげなで。同じ佐伯姓でも、連(ムラジ)や宿禰と空海さんの直では、身分が違ごうたし、直接の縁戚は無かったげな。それでも真魚少年は今毛人老人に近付いた。そんで大学で習う儒教ではない、今毛人老人が信じとる仏教への関心が強うなっていったらしい。

ついに伯父さんや讃岐出身の大先輩、現在の香川県寒川(サンガワ)出身の岡田牛養(ウシカイ)大学博士の教えも振り切って、真魚は大学を飛び出して行方不明になってしもうたげな。

 これからの真魚は、どこでどないしとったんか、さっぱり分からんそうな。空白の7年とも13年とも言われとる。国家から認証された正式な僧ではない、私度僧(シドソウ)という身分のまま、寺という寺を勉強のため巡り歩いたり、優婆塞(ウバソク)たらゆう行人(ギョウニン)になって山から山を駆け上る修験道に熱中したりしたらしい。この決められた枠組みに入らんと、はみ出し者であり続ける性格が、後の弘法大師を生んだんや。あのまま大学で勉強を続けとったら、優秀やけんど平凡な役人で終わったやろうとは、司馬遼太郎さんの言葉です。

創意に溢れた性格の空海さんに、聖人の教えを後生大事に守らないかんことが第一義の儒教は向いとらん。儒教をなによりも大事にすることの弊害は、それを科挙(カキョ)という任官試験で守り続けた中国が、長いこと近代化に乗り遅れたことで有名でしたな。
 
 さぁ、いよいよ天才の証明、24歳の空海さんが書いた言われとる、我が国最初の戯曲「三教指帰(サンゴウシイキ)」についてやけんど、それは今度にするで。

そやそや、こんな塩爺の話しについて、感想や意見があったら聴かせてもらえませんでか? 参考にさせてもらいますんで。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.13 「空海さんの話(三教指帰・サンゴウシイキ)」

 こないだゆうた空海さんの「三教指帰」ゆうのんは、儒教、道教、仏教の考え方の比較を擬人化して、お芝居の問答にした読み物や。儒教は亀毛(キボウ)先生、道教は虚亡隠士(キョボウインシ)、仏教は仮名乞児(カメイコツジ)として、若い空海さんは戯作を書いとる。どの道ひとつ取ったって勉学に一生かかるもんを、二十歳そこそこの若者が手玉に取るみたいにして比較しとんやから、それこそ天才としか言えんわな。もっとも二十歳時分に書いたんは「聾瞽指帰(ロウゴシイキ)」ゆうたんを、あんまり内容が過激なんで、唐から帰った後に「三教指帰」に書き改めたという説もある。それにしても凄いで。奈良時代の終わり(800年)頃に、国の学問の中心やった儒教や道教はつまらんゆうて、仏教こそがほんまに人を救う教えやと説教しとるんやから。

どないな内容か、現代訳「三教指帰」の最後の部分を、ホームページから拾うてみるで。

ホームページは、山本智教訳注 弘法大師 空海全集 第六巻となっとるけんど、分かりやすう訳してくれとりますわ。

仮名乞児「私はこれからあなた方のために仏道の大綱をのべよう。秦の始皇帝のもっていたといわれる偽りを映し出す鏡でも見るがよい。(略)ともに仏道を学ぶがよい。儒童や迦葉はみな私の友達であるが、この人たちは、私たちの師である仏陀釈尊があなた方の愚昧をあわれんで、以前に中国に遣わして孔子と老子としたのである。中国の人々の素質が劣っているので、まずかりに浅薄な二つの教え(儒教・道教)を説いたのであって、仏教の過去・現在・未来にわたる真理をまだ説いていない。」

 これで優しく書き換えたゆうんやけん、若い時分の文章はもっと過激やったんやろな。

 「空海の風景」で司馬遼太郎さんも書いておられるけんど、空海さんはほんまに文学者でもあったんやな。ぜひこの「三教指帰」の現代訳は、みなさんに読んで欲しいですわ。

 参考までにHPのアドレスを書いときます。「さんごうしいき」と検索でも出ます。
http://www.nnc.or.jp/~sekiho/kukai02.htm

 真魚が大学を離れた空白の7年間を知る、唯一の手掛かりがこの「三教指帰」に書かれとる。自分の生まれた邦とか、阿刀大足(アトノオオタリ)伯父さんのことや大学を離れてからのことが書かとるで。ついでに、これは伝説的な出来事として有名やけんど、空海さんの超人の基礎をつくる大事な体験を書いた一部分を、同じホームページから引用しときます。

「ここにひとりの修行僧がいて、私に『虚空蔵求聞持(コクゾウグモンジ)の法』を教えてくれた。この法を説いた経典によれば、『もし人が、この経典が教えるとおりに虚空蔵菩薩の真言を百万回となえたならば、ただちにすべての経典の文句を暗記し、意味内容を理解することが出来る』という。そこでこの仏の真実の言葉を信じて、たゆまない修行精進の成果を期し、阿波の国の大滝嶽(だいりゅうのたけ)によじ登り、土佐の国の室戸崎(むろとざき)で一心不乱に修行した。谷はこだまを返し (修行の結果があらわれ)、(虚空蔵菩薩の化身である)明星が姿を現わした。」

 この虚空蔵求聞持(コクゾウグモンジ)の法がどんなもんか、あんまりよう判らんけんど、えらい神通力があるそうな。空海さんの超人的な記憶力は、この呪法からきとんやろか。ほやけんど空海さんが明星を体内に取り入れてからのことを調べとったら、まるで伝説の役行者(エンノギョウジャ)になったみたいやわな。ここ一番ゆうときの願い事のほとんどが、叶うとるで。ほんま、誰も彼もが催眠術にかけられたみたいに、しまいには天の神さんまで空海さんの言いなりになっとるみたいやわな。

 ほしたらどなんげな不思議が起こったんか、司馬遼太郎さんの「空海の風景」から調べてみるで。今日はもう時間やけん、それはこんど逢うたときにするわな。

塩爺の讃岐遍路譚 Vol.14 「空海さんの話(奇跡のような不思議の連続@)」

 これから3べんは、空海さんにまつわる不思議のあれこれを、年代順に見てみるで。

 修行の旅から都へ戻った空海さんは、密教の教えを学ぶうちに大日経が一番大事やと知り、それを探し廻ってついに夢で在り場所を知ったげなが、ほんまやろか。不思議の始まりやわ。ほいでそれを読んで、そのほとんどを理解したとゆうから凄いな。ただ、密教は文字で書かれたもんを読んだだけでは理解できんらしい。またサンスクリットで書かれた部分が、もうひとつよう判らん。やっぱし唐の国へ行かないかんと、がいに(強く)思うたげな。そしたらどうな、これまで20年間中止されとった遣唐使が、空海さんを待っとったみたいに開されたんや。噂では、最澄たらゆう自分よりたった7つだけ年上の若者が、その当時日本最高の仏教者代表として唐へ渡るらしい。

 空海さんは私度僧やったから朝廷が認めた正式の僧侶やないし、国の事業に参加する資格もない。それで慌てて得度して正式の官僧になったらしい。31歳や。この官僧になるのんはたいがい難しい。それが何やしらんけんど、その気になったらすぐになれとる。奈良仏教界の長老たちに可愛がられとったお陰やろな。そやけど今度は遣唐使に入れてもらわないかんけんど、これは官僧になるよりずっと難しい。ほれでもやな、どなんしたコネで出来たんか、見事に滑りこめとる。もっと不思議なんは、正式な遣唐使船団は1年前の延暦22(803)年に難波の港を出発してしもうとったんや。もう間に合わんのや。ほしたらどうな、なんとその遣唐使船が瀬戸内海で座礁して、博多で1年余りも修理と風待ちで待機になってしもうたそうな。ほいで追い付いたら欠員ができたんか、乗り込めたらしい。ほんまは死にに行くような旅やけん、逃げ出したいもんはようけ居ったげなで。それで後から追い掛けて間に合うたゆうんや。どこまで運がええんか、ほれとも天が味方したんやろか。

 もうひとつ空海さんにとって大問題やったんは、旅費のことや。最澄はんは還学生(ゲンガクショウ)ゆうて、ゆうたら国の視察者ゆう身分で費用は全部国から出してもらえるし、通訳まで付けてもろうとるけん心配いらん。空海さんは留学生(ルガクショウ)で勉強に行く身分やけん、支給金は少なかったはずや。ほしたところが、どこから工面したんか、ようけ持って行っとるげなで。中国での交際費や帰りに買うた道具類、経典の数をみたら、どないみても今の金で何千万から億単位の金やったらしい。讃岐の一族から掻き集めたか、一説では桓武天皇の子の伊予親王はんも支援してくれたらしい。伊予親王さんが、伯父さんの阿刀大足(アトノオオタリ)の教え子やった関係やろな。ところで還学生(ゲンガクショウ)ゆうたら、教えを受けて経典を手に入れたら2,3年で帰れる決まりやけんど、留学生は勉強を達成せないかん。その時の決まりで留学生は、20年中国に滞在が決まりやったらしい。ほれでも空海さんは行った。その後の動き方を見とったら、初めから20年も居る気はなかったげな。まんでおとろし(恐ろしい)もん無しや。ここまでのことを一言でゆうとるけんど、どれひとつ取っても偶然と幸運にめぐまれて、そのうえ周りの熱烈な援助がなかったら、どなんしたって実現しとらんことや。それが全部できとんやけん、不思議なお人やな。

 やっと博多を出発した遣唐使の船は4隻やった。あの頃、日本の船はへぎ板を重ね合わせたみたいなもんで、竜骨もない箱船やったらしい。大波を受けて捻れたら、直ぐにバラバラになるんやと。そんな船やから、沈没するのが当たり前みたいやったらしい。ほいで、その時も3番船と4番船の2隻は沈没したそうや。助かった1番船には空海さん、2番船には最澄さんが乗っとった。嵐のために空海さんの乗った1番船は、2番船とも離れてずっと南へ流されて、いまの福建省へ漂着したらしい。福建で密航船と疑われて渚に何日も座らされ、藤原葛野麻呂(カドノマロ)とゆう遣唐大使がどない嘆願書を書いても中国の役人に相手にされなんだんが、空海さんが書くと手のひらを返したように丁重な扱いで上陸が許されたそうや。この名文章といわれる「大使のために福州の観察使に与うる書」とゆうもんは、今も「性霊集(ショウリョウシュウ)」に残っとるげな。

 いつもこれや。どこまで運が強いんか、それとも実力やったんかよう分からんけんど、不思議は付いてまわっとる。まだまだ続くけんど、時間や。後はまた、次にしようでな。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.15 「空海さんの話(奇跡のような不思議の連続A)」

 空海さんの不思議を見とるけんど、不思議だらけや。前回は嵐に逢うて福建省まで流されたゆうたな。それはビン人の町や。ビンとは門のなかに虫と書く字やけんど、パソコンにも無い字や。この虫はヘビを意味しとるらしいで。それでビン人は、昔からヘビを尊敬しとるんや。いまでもスネークヘッドたらゆう集団が悪いことしとるけんど、ここの福建が拠点や。だいぶ前にテレビで、ここの町を写しとったけんど、いまでも土地の人は空海さんを尊敬して、お堂まで造っとったで。あれには感心させられたな。

 また話がそれた。元に戻るで。中国は唐の都、長安に着いてからの空海さんはこれまた大変やった。書の本場中国で名筆と称えられるわ、書く詩文は名文やゆうてもてはやされるわ、完全にスターや。そやけんど、役目の終わった遣唐大使らが帰った後、ほんまに空海さんはえらい勉強をしたらしいで。
空海さんが習うたんは、サンスクリット語や。これは超人的な出来事やと、司馬遼太郎さんは「空海の風景」に書いとられる。ちょびっと覗いてみるな。
「長安に入って恵果(エカ)に会うまでの五ヶ月、この都市の殷賑(インシン)の中を浮かれ歩いていたのみではなかった」「たとえば筆の店の軒下に立てば、良筆の見わけ方から筆の作りかた、ついにはその技術のこつのようなものまで学びとってしまう」「その関心と吸収力の対象は、堰堤(エンテイ)や橋梁から建築にいたるまでにおよんだ。」

そんな空海さんは、インド人の般若三蔵という僧から、本場のサンスクリット語を教わったんや。「サンスクリット語世界は、当時の貧困な日本語世界からは想像もできないほどに、言語そのものが大きな文明を為して」いるらしい。「それを、空海が長安に入ってわずか五ヶ月で習得したというのは、うごかしがたい事実であるように思われるが、しかしそれほどの頭脳が、この世に存在するのだろうか。」司馬さんをして、こう言わしめとんや。

この後、やっと恵果和尚に逢うとるけんど、和尚は待ちかねたみたいに「われ、先より汝の来るを待つや久し」ゆうて、すぐ真言密教の全部を伝授しとる。千人を超える中国人の弟子が居ったけんど、それを飛び越してしもうた。恵果和尚は伝法の終わりに、「遍照金剛」の号を空海さんに与えた。これは大日如来の密号らしいで。遍照はまわりを照らすことで、金剛は永遠不滅のものとゆう意味やそうな。ほんだけんやな、遍路に参るとき、みんな南無大師遍照金剛って唱えるんわ。南無は仏さんの尊称やから、「大師は大日如来様」みたいな意味になるな。

ほして、教えたらすぐ恵果和尚は、抜け殻みたいになって死んでしもた。真言密教は金剛界と胎蔵界の両部で成り立つけんど、もうインドでも絶えて、中国で不空、恵果しか伝えるもんがおらなんだらしい。その中国でも継承者が無うなって、空海さんに伝わって、日本だけに残ったげな。これがなかったら、真言密教はこの世から消えとったかもしれんと司馬さんは言うとる。

さて、これからが問題や。普通、留学僧なら20年滞在するのが国の命令や。最澄や遣唐使一行は、早うに日本へいんどる(帰っとる)。空海さんは信じられん早さで、目的の密教の全部を相承してしもた。ほしたら早よう日本にいなないかんと、焦ったと思うで。そんでも帰る船便がない。仮に私貿易船があったとしても、皇帝の許しを受けなんだら絶対勝手には帰れんのが決まりやった。

ところがどうな。またや、またや。考えられんことが起こる。それは中国の皇帝が立て続けに死んで、慌てた日本の朝廷が、新しい皇帝へ慶賀の使者を送ってきたんや。この機会を逃したら、日本からの使節団は何十年先になるんか判らん。現にこの次に来たんは、30年後やったらしい。

これから空海さんは決死の覚悟で、皇帝へ帰国の嘆願書を書いとる。空海さんの嘆願書の威力は抜群やで。留学生というものが2年や3年で帰国するのんがどんだけ厳しい規則違反やったんか、日本へ戻ってから朝廷へ言い訳の書を書いとる内容でも分かる。国の命令の20年を欠くことから「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖(イエド)モ」や。ほしてこの時の使者、高階真人遠成(タカシナマヒトトオナリ)に助言してもろて、何とか日本へ帰れとる。この日本の国使の助言をもらえたんも、まんで奇跡みたいなもんや。もしこの助言が無かったら、この時の皇帝が「朕は、この僧をとどめて自分の師にしょうと思っていた」とゆうたとか、本気になられたら逆らえん相手や。

長うなったな。空海さんの不思議の話しは、あと1回で終わるわな。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.16 「空海さんの話(奇跡のような不思議の連続B)」


 そうや、空海さんの不思議なら、恵果和尚から伝法してもらうとき、反対した珍賀ゆう僧の話があったんを忘れとった。珍賀はんは、遠い東の国から来たどこの馬の骨か分からんもんに、大事な密教を修行もさせんと授けてしまうのはいかんゆうて猛烈に反対して廻った。ほしたところが、あくる日にお寺へ来たら別人みたいになって、みんな不平をゆうな、空海さんは密教を受け継ぐのに最高の人や、反対したわしが間違うとったゆうて廻ったそうや。ここが空海さんの怪しげなとこや。どない思うても、空海さんが呪術かなんかしとるで。実はその晩珍賀はんは、、おとろしい夢を見たんやと。夢の中で四天王にどつかれたり、蹴られたりしたそうな。

九州へ上陸して(807年)からの空海さんは、直ぐには都へ戻らんと太宰府に残り、桓武天皇の死後皇位を継いだ平城(ヘイゼイ)天皇の様子を伺ごうとったげな。都では不穏な空気が流れとる。空海さんの中国行きを支援してくれた伊予親王は、平城天皇が即位した後、政争に巻き込まれて毒を飲んで死んどる。その家庭教師やった阿刀大足伯父さんは、宮廷を逃げ出して隠れとったげな。それから2年、やっと官符が出て、空海さんは和泉の槇尾山寺(マキノオサンジ)へもどったらしい。その前後に平城が天皇を辞退して、後を弟の嵯峨天皇に譲った。ほしたところ薬子の乱(810年)が起こった。薬子にそそのかされた平城(ヘイゼイ)上皇が元の天皇に戻りたいゆうて、嵯峨天皇との兄弟の争いになったんや。そやけんど、空海さんはそれに巻き込まれんと、うまいこと立ち回れとる。これは阿刀伯父さんの助言があったからやと、司馬遼太郎さんはゆうておられる。阿刀伯父さんは空海さんが九州から和泉の槇尾山寺へ帰るのを待ちかねたように逢いに行き、それからは死ぬまでずっと空海さんの側近で過ごしたらしいで。

これから後のことは、最澄さんとの交流と別れが有名やけんど、長うなるけん省略するでな。とにかく嵯峨天皇には書のほうで気に入られて、空海さんは名声を高めていった。
ここで空海さんのことを、天皇に媚びへつらう俗物的出世主義者と世間では誤解されとるようやけんど、司馬さんや他のようけの人がそうやないとゆうとられる。空海の風景を読んだら「自分の教義の宣布のために天皇の権力は利用しても、天皇そのものは空海の宇宙と生命の思想からみてもただの人間であるにすぎない。天皇といえどもただの人間にすぎないことを空海ほど露骨にそう思っていたらしい人物もまれであったかと思える。」やと。

元高野山大学学長の松長有慶さんも「鎮護国家といえば、外敵から国家を守護する考えであるかのように一般にうけとられているが、空海にあっては、民衆におよぶ災害を除き、福を増すため、すべての活動力を集中することを意味した。空海の著述に、国家とある箇所は、朝廷の意味とともに、民衆をふくめて説かれていることにも注目すべきであろう。」
といわれとる。

空海さんの不思議は、この他清涼殿で他宗との宗論に勝った後、嫌がらせで即身成仏の証明が出来るか、と問い詰められたとき、ほんならと結跏趺坐(ケッカフザ)して大日如来の智拳印を結んで真言を唱えたら、見とるまに空海さんが宝冠をかむり金色の光を放つ大日如来の姿になったとか、日照り続きに雨乞いをしたら、3日3晩降り続いた話しとかあるけんど、書いとったら切りないんでここらで止めとくな。

最後にひとつ、これは不思議の話しやないけんど、空海さんが造った学校のこと話しとくで。綜芸種智院(シュゲイシュチイン)(828年)ゆうて、貴族や金持ちのためでのうて、庶民のための学校を造ったらしい。これは原型が閭塾(ロジュク)ゆうて中国にあったらしいけんど、空海さんは日本で初めて9世紀に庶民の学門所を造ったんや。その昔、自分が地方長官「直(アタイ)」身分の息子で、都の大学にはすんなり受け入れてもらえなんだ(とゆう説もある)、苦い思いがあったけんやろかな。綜芸種智ゆうんは、いろんな学門と技術の可能性を意味しとるんやと。費用はほとんどタダやったらしい。ほんであんまり理想が高すぎて、空海さんの没後18年しか続かなんだらしい。資金切れと教える人材が不足したせいやったそうな。そやから、あんまりこのことは、一般には知られとらんみたいやな。爺も知らなんだで。

ほんまは、高野の地に本山を開く時、地元の丹生都此売命(ニブツヒメノミコト)が助けてくれた伝説の話しは、先住の山の民との深い関係で興味があるけんど、またにするでな。

ほしたら、空海さんの不思議の話しはこれで終わるで。今日は長うなったな。


塩爺の讃岐遍路譚 Vol.17 「空海さんの話(まとめ)」

 空海さんだけは、なんぼ話しても話しが尽きんでな。空と海、こんだけの意味を込めた名前を考えるだけでも、スケールが違うと思う。ほんまに宇宙的や。ほんならここで、空海さんの説く真言密教について、素人やけんど調べてみるで。むつかしいことは本職のお坊さんに任せることにして、素人にも分かるようにみてみるで。ほいでも四国遍路がどの宗旨でも受け入れて、いつまでも続いとる意味は判るような気がし
ます。

密教ゆう言葉に対して、顕教ゆう言葉がありますな。顕教とは釈尊の教えをだいじに説くもんやいわれています。それに対して密教は、顕教も含む宇宙真理を人格化した大日如来の説法やとゆうんや。別のことばでゆうたら、顕教は小乗(上座部)仏教で、密教は大乗仏教ゆうことになる。ここで思い出すんは、本地垂迹(ホンジスイジャク)の考えやな。なんとのうよう似とるで。小乗(上座部)から見たら、大乗は釈尊の教えからはみ出しとるけん純粋の仏教や無いゆうけんど、大乗は小乗がなにをゆうてもおまはんらみんなわしの仲間やで、そないゆうて包み込んでしもうとる。

松長有慶さんの「真言密教の教えと歴史」から見ると「顕教は、釈尊の悟りの内容を、文字とか言葉とかいった間接的な方法をもって伝え、本質的なものを解き明かしていないのにたいして、密教では真理にじかにふれ、直接われわれに悟りの内容が伝えられるという。(略)空海によって、このように密教は明確に定義づけられ、それまでの仏教の流れのなかで、その特色が鮮明にされた。密教を顕教と対立関係におき、その独自性が問題とされたのは、不空と恵果の流れをくむ空海にはじまる。」

いま、密教がなんでも包み込んでしまうゆうたけんど、これを包摂(ホウセツ)とゆうそうなで。「お経の中に医学、薬学、数学、天文学などの自然科学に類するものまで包み込んでいます。」やと。この包摂のあと純化とゆう仏教化の整理がされるらしい。これを別の言い方すると、何でも取り入れる包摂の段階を初期の雑密(ゾウミツ)ゆうて奈良時代の現世利益が中心の教え。それを仏教的・思想的な面を入れて組織化し、大日教と金剛頂教という二つの経典によって完成したのが平安時代の純密やと。純密になると、現世利益より成仏が中心になる。成仏とは死ぬことではのうて、精神的な完成の意味やそうな。

ところで、空海さんは若い時分から優婆塞(ウバソク)になって山野を跋渉しとったけんど、この日本古来の山岳信仰の修行が土台になって高野山の開創が生まれ、自然崇拝的真言密教が組織されたみたいやな。ほして山伏といわれる修験者がこれを受け止めて、熊野詣や四国遍路みたいな巡拝の基礎がでけたらしい。高野山開創に朝廷の財力を借りんと、先住の民みたいな山住み(伝説では丹生姓=鉱山業)の人たちの資金援助に頼ったけん、修験者との深いつながりがでけたと思うで。ほんまは空海さん自身が自然と一体化する修行の旅にもっともっと出たかったんやと思うけんど、晩年は仕事が多すぎてでけとらん。そやから、四国遍路の道中は、南無大師遍照金剛ゆうてお参りするのが、せめてもの空海さんへの供養やといわれとる。これがほんまの同行二人かな。

そうそう、空海さんのことをお大師さんと普通ゆうとるけんど、これは弘法大師のことやな。この大師号ゆうんは、「大導師」「大師範」の意味で、本来は「国や帝王の師となるべきもの」という意味で使われた言葉やそうな。学徳の優れた高僧に対する敬称で、後に高僧没後に朝廷から贈られる名前「諡号」(シゴウ)として用いられようになったんやと。日本では清和(セイワ)天皇の貞観8年(866)に、天台宗の最澄(767-822)に伝教大師、円仁に自
覚大師の号が送られたのが最初やと言われとります。その後、空海さんにも弘法大師号が贈られたけんど、それは死後90年ちかく経った醍醐天皇の延喜21年(921)のことやそうな。大師号は平成の今日まで25人おられるけんど、お大師さんゆうたらなんでか弘法さんになってしもうとるな。ほんだけ民衆に慕われとるんですわ。

 空海さんが偉いんは、仏教がどっちゃかというと国家や貴族のためばっかりやったもんを、庶民の慈善事業や教化活動に結び付けたことやと言われとる。民衆救済を国家規模で実行したんは、やっぱり空海さんが初めてやそうな。

国家を突き抜けて人間中心の考えになる、これは明治の宮武外骨に繋がることはこのお話の最初にゆうたけんど、讃岐の人間として二人とも自慢でけることですわ。

「天長9年(832)空海59歳のとき病魔にみまわれ、高野山において、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きれば、我が願いも尽きん。―『この大空がなくなり、迷える衆生がなくなり、全世界の人々が平和な仏の世界に遊ぶまで、我が救済利民の誓願は永遠に捨てません』と願文を書いた。そして空海は3年後の承和(ジョウワ)2年(835)、62歳で高野山において入定した。入定とは肉身を永遠に留め、やがて弥勒如来とともに救世者になることをいう。
空海は死なずに仏になって(即身成仏)衆生を救うのである。それが弘法大師が日本列島をくまなく歩き、様々な奇跡を残す伝説に発展していく。」と「四国遍路の民衆史」で山本和加子さんは書かれとります。

ほしたらこれで、空海さんのことは終るで。やれやれですわ。

次からは、中世以降の世の中の変化と四国遍路の歴史を調べてみるでな。

塩爺の讃岐遍路譚 番外「空海と最澄と理趣釈経」

いつも爺の話を聴いてくれて、ありがとで。それにメールで激励されたりしたら、もう嬉しいて感激やわ。ほしたところ「しんゆ」さんというお方から、最澄さんと空海さんがモメたあたりを塩爺の語り口で聴きたいゆう希望がありましてな。正直ゆうたら爺もあんまりややこしいんで手を抜いとったんやけんど、やっぱし気になっとりました。ほんなことやけん、もうちょびっとだけ調べてみよでか? うまげに書けるかどうか心配やけんど、まいっぺんだけ付き合うていた。ご免やで。

 最澄さんは、若いのに還学生(ゲンガクショウ)として、仏教界の代表みたいな身分で唐の国へ行った。桓武天皇にそれはそれは高こう評価されとった。天台宗の教えもちゃんと唐で習得して、時間が余ったついでに密教も帰る途中で勉強して、得意満面で戻ってきた。これが悪かった。さぁ、天台宗を本格的に広めようとしたら、桓武天皇は密教の呪術的な神秘力に強い興味を示された。最澄さんが持って帰った教典の目録「将来目録」に、密教の名前があって、それが宮中の偉いさん等に注目されてしもうたんやな。最澄さんも、なまじ密教を囓(カジ)ったばっかりに、後に引けんようになったげな。

 そのうち桓武天皇は強引に最澄さんを密教の指導者とし、あろうことか奈良の旧仏教界の長老たちに灌頂を受けさせる命令まで出した。桓武さんは、古い権力にあぐらをかいとる奈良仏教界を煙たがっとったんや。しぶしぶ灌頂を受けさせられる長老たちは、内心怒っとった。最澄さんもしょうこと(仕方)なしに、それを実行してしもうた。逆らえんかったんやな。それに最澄さんにとって密教は、数ある教典の中のひとつで、本来は天台宗が一番大事やと思うとったげな。悪うても天台と密教は同格やと考えたげな。そやから軽々と密教の行法をこなし、しまいに勅命で桓武の灌頂までしてしもうた。こうなったら国師やで。

 そのうち桓武天皇が体調を崩したけん、祈祷をしたりしたけんど、ついに崩御された。一番の庇護者に亡くなられたら、さぁ、風当たりが強うなった。これまで押さえ込まれとった奈良の長老連中からの反撃も凄まじい。次の平城(ヘイゼイ)天皇は桓武天皇ほど味方にはなってくれなんだ。最澄さんはしょうことなしに、真正面から奈良仏教界と論争せないかんようになったんや。

 そこへ空海さんが戻ってきた。ほしたら眼をむくみたいな教典の数々を「御請来目録」として朝廷へ差し出した。ほんで、密教とはどんなもんで、正当な密教は不空、恵果という嫡(チャク)流の伝道者から直接面授されなんだらいかんもんや、ゆうて書いとる。ここを司馬遼太郎さんによると、「真言密教の要諦を簡潔に説き、かつ、いままでの顕教(天台宗をもふくめて)とはくらべものにならぬほどの大法であることを述べている。さらに、恵果のことものべた。もし、宮廷の大官でこの文章をみて昂奮しない者がいるとすれば、狂人か、よほど鈍感な者であろうかと思える。」やと。

 これには最澄さんもびっくりしたやろな。前の敵と戦こうとる最中に、背中から大砲をぶち込まれたみたいなもんや。不安定な足場で立つのもやっとの思いやのに、その一番弱点の密教に砲弾が当たったんやけん。おまけに相手は太宰府で、よう知らん留学生(ルガクショウ)や。うわさ話くらいは知っとったか知れんけどな。どっちゃにしても敵の姿がよう見えんのに、強烈な弾だけが飛んでくる。これには参った。空海さんは直ぐには都へ上らんと、弾だけ撃ち続けた。無名の留学生が、一躍都で注目の的になった。これは、入唐してもすぐ恵果和尚を訪ねんと、西安の名士連中を書と詩文で熱狂させて名声を高め、和尚に首を長ごうして待たせたあのやり方と同じやと、これは司馬さんの受け売りや。

 そのうち上京の命令が出て、畿内に入るけんどまだ京へは入らん。和泉の槙尾山寺(マキノオサンジ)で時間を稼いどるみたいや。その間にも、最澄さんは空海さんが朝廷へ献上した「御請来目録」を見ては、悩んだと思うで。自分の知らん密教の教典がなんぼでもある。サンスクリットの本もある。根が真面目なだけに、どなんちゃならん。頭を下げてでも教典を借りるしかない。

 空海さんがそのうち京の高雄山寺へ入り、平城上皇と嵯峨天皇の確執、薬子の乱を上手にやり過ごした後、勝者の嵯峨天皇へ護国の護摩焚きを願い出たりしとる。これを嵯峨天皇が認めたんやから、もうその時分(ジブン)、空海さんは天皇に認められとった証拠やな。天皇に認められるゆうことが、どんだけもの凄いことか、想像もつかんでな。普通は五位以上の身分でなかったら、宮中には入れなんだ時代や。それやのに鮮やかに、それを実現してしもとる。もっとも僧侶や白拍子は法外の身分で、例外的に天皇に会えたらしいけどな。当代きっての書の達人で、詩文にも長けとった嵯峨天皇を、それを上回る書と詩文で接近したんは、やっぱし阿刀叔父さんの情報と助言もあったんやろな。嵯峨天皇は文人仲間か文化サロンみたいな調子で、空海さんと当時の近代都市・唐の話をしたかったげなで。これも司馬さんの説や。

 最澄さんは立場上、密教をどなんしたって会得したかった。ただ、天台と密教を並べて理解しょうとしたんが間違いや。相手はなんでも包み込んでしまう、包摂(ホウセツ)の空海さんやった。論争では勝負にならん。哀れなぐらい頭を下げて、空海さんに書物を借りとる。そんでも頭がよかったんやな、次々理解が深まっとる。そないなると空海さんは気分が悪うなる。ほんまは、密教ゆうもんは文字から入るんではのうて、所作や印形の修行から入らないかん。梵語の原典の理解も要るし、師に直接伝授されるもんや。そやから、比叡山から出て、こっちゃへ来なさいと言い出した。7つ年上の最澄さんは、言われるままに出かけとる。

 そやけんど、天台の経営も忙しい。空海さんから見たら、天台がどなんした、もっとおっきょい(大きい)教えが密教や。その覚悟で来んかい、とゆう思いやった。文字だけで理解するんを、密教では「越三昧耶(オツサンマヤ)」ゆうて憎み嫌ろうとった。そやけんど、最澄さんにとっては、天台も大事や。後回しにはでけん。その違いやな。時間のない最澄さんは、何人かの弟子を残して、自分は山へ帰ってしもた。この弟子の中に泰範(タイハン)ゆう人がおった。よっぽど可愛がっとったんか、最澄さんは泰範に帰山を何遍も促しとる。ほやけんど、密教にのめり込んだ泰範は、師の度重なる懇願を断った。

 ほしたら最澄さんは「法華一乗と真言一乗とは何ぞ優劣あらん」、法華経も真言密教も変わらんのやけん、早よう帰って一緒に修行しようと書いてしもうた。これを読んだ空海さんは激怒して、ぼろくそに反論した。これで最澄さんと決定的な考えの違いが表面に出て、それきり疎遠になっとる。

 最後に、密教で一番むつかしい理趣経が出てきた。これを知らな話にならん。この世の根本が書かれとるげな。男女の咬合が菩薩の位やゆうんや。これが判らんから、「理趣釈経」たらゆうもんを貸してくれと申し入れた。ここでも最澄さんは、割と気楽に申し入れとる。ほしたところが、これにも空海さんは噛みついた。それだけはでけん。解釈を間違ごうたら、密教そのもんが誤解されて怪しまれる。それこそ修行が要るもんや、ゆうて断っとる。

 こないして、空海さんと最澄さんの付き合いは終わったげなで。このいきさつから後の人たちは、腰の低い最澄さんを真面目で善良なお方、それに比べて空海さんは傲慢で意地悪いお人やいうイメージで見るようになったげなけんど、ほんまはどうやろうか? おまはんらは、どなん思うで? 

 えらい長ごうなってしもたけんど、これで空海さんと最澄さんとの関係を終わるでな。「しんゆ」さん、こんなんで宜しかったですか?

 ほんまにこれで空海さんの話は終わるで。どなたはんも、付き合うてくれて有り難うさんでした。これからも、もうちょびっと旅を続けるけん、付いて来ていたよ。

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塩爺の『讃岐遍路譚』
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